児玉昌己研究室

内外の政治と日常について想うことのあれこれを綴ります。
時平再評価を促すNHKスペシャル「ひらがな革命」

 NHKスペシャル「ひらがな革命」を見ていた。
 古今和歌集(905年)の編纂を命じた藤原時平(ときひら)の別の顔を知る。時平と道真の後世の評価は、天と地との差だ。
 都を追放され、大宰府に流されそこで世を終え、そのことがゆえに神になった道真だが、他方、時平は、江戸の歌舞伎で極悪人とされてしまった。
 だが、時平こそが、律令制度の放棄、再編過程で、道真に代表されるように、中国文明とそのシンボルの漢字に傾斜してきた日本の貴族たちに文字を通じた、脱中国()の意識革命、つまり「国風文化」を推進した人物であったという説を提示している。実に新鮮だ。
 時平は、その後、権力を求めることもなく、左大臣のままであったという。実際、文字と日本文化の確立に関心をおき、漢字で音表記を採っていたそれまでの貴族所有の古歌の提出を求め、これを純粋なひらがなで書かせた。これが時平の古今和歌だが、こうした勅撰和歌集を考案する人間が、権力に関心を持つなどあまり考えられないことだ。1100年の時を越えて、時平のイメージの再検討と再評価が必要なのだろう。
 「古今和歌集」を辞書で調べると、広辞苑もマイペディアでも時平の名はない。わずかに、後者では醍醐天皇は出てきているだけで、編者として両者が紀貫之、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)などの名前だけがあるにすぎない。まして律令制度の行き詰まりなどの政治的背景などの記載はさらさらない。いい勉強になった。
  歴史家で上智大学名誉教授の平田耿二先生が出演コメントされているが、必ずしも、平田先生のご説とは一致するものではないように感じた。番組脚本家が、この内容に相当影響を与えていると思える。皆さんはどのように見られていましたか。

| 児玉昌己 | - | 17:27 | comments(0) | trackbacks(1) |
実を挙げ始めた安倍政権の北朝鮮制裁
   日本の北朝鮮制裁は、このところ着実に北朝鮮に対して機能し始めた。万景峰号差し止めと荷物検査では、北朝鮮に不法に持ち出されそうになった放射線対策にもつかえる医薬品が押さえられたし、ミサイル関連企業の不正輸出の摘発や、不法行為に手を貸す朝鮮総連や関係団体への捜索も相次いでいる。
 国連による北朝鮮制裁決議が行われるまでは、小泉政権は及び腰で、それをいいことに、むしろ制裁の効果を過小評価もしくは否定的評価する無責任な評論家や言論人が多数いた。しかし、このところの報道では、制裁は確実に北朝鮮に打撃を与えていることを知る。
 北朝鮮みずからが、対日報復などといいながら、万景峰号の運行再開を求めるなどしているのがその証左だ。
 彼らがこの制裁で最も打撃を受けているのは、バンコデルタ・アジア、開城工業団地、金剛山観光、そしてこの万景峰接岸禁止など、彼らが言及する事項においてである。
 制裁の効果については、たとえばそれまで、韓国や中国を経由して日本に北朝鮮産海産物が入ってくるから同じであると論を張るものがいた。しかしこれらは、誤っていた。
 たとえ、そうだとしても、北朝鮮産品を扱う韓国企業や中国企業も、国際条約に反する違法行為を行っているという心理的圧力がかかっているのである。摘発される危険を冒しているのであり、制裁破りの違法行為という位置づけになっているからである。
 このように、制裁の効果については確実に上がっているといえる。これを否定的に見ていた言論人は、その無責任さが非難されべきである。彼らは、実行する意思も述べないで、実行する前から、アレコレ効果の是非を問う。すなわち、その態度において、まさに敗北主義者以外の何者でもない。まさに右顧左眄の評論家でしかない。
 テレビに出るいわゆる有名コメンテイターなど、疑ってかかっていい。立派な人もいるが、噴飯者もその一部にいる。特に言動がブレる連中には注意を払うべきだ。
 内政では、たとえば教育基本法の改正の拙速さや、小泉政権下で切り捨てられた郵政民営化反対論者の復党問題での党執行部への丸投げなど、指導力の欠如で支持率を下げている安倍政権だが、北朝鮮政策は大いに評価している。
| 児玉昌己 | - | 18:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
気分は師走
 11月は学科、企業訪問、入試とバタバタしていたら、あっという間に、その11月も終わろうとしている。
 ブルージュの欧州大学院大学時代に懇意にさせてもらった朝日ブリュッセル支局長の脇坂現論説委員に「EUと北朝鮮」の論文ができことや、上記の近況を知らせると、Eメイルで、「師走そのものですね」とのメッセージがあった。もとより、師走の「師」とは、坊さんのことを言うが、それをひっかけた表現だ。もっとも今では教師ならずとも、世のみんなが、年末は忙しくなる。
  すでに年賀状の販売も始まり、株主へのカレンダーも届き始めている。年をとるごとに1年の過ぎるのが早くなる。年配の方からそう聞き、そして今それを実感する頃だ。
 人生は運命がありますよと、若き日、就職の世話をしていただいた故志津田長崎大学教授(海商法学会理事)にそういわれたことがある。
 当時はさして意味を考えなかったが、今いるこの時間と空間は、誰にも変えられる物ではないということだろうと最近思っている。その中で、それを最大活用することがこの時間という、非情にも人知を超えた強制の敷居にたいして、意味を持たせる唯一のすべだろうと思っている。



 
| 児玉昌己 | - | 08:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
ASEANでの興味深い動き
 先にこのブログでアセアンのことをアジア共同体との関係で書いた。
 読売が昨日付けで興味深い報道をしている。アセアンが意思決定に多数決を使う可能性を模索しているということだ。
 意思決定における多数決について考えられたことがあるであろうか。 国際機関で多数決を使うところはEU以外寡聞にして知らない。
 主権国家からなる国際機関で多数決を採択の道具として使用することは、多数決で負けた場合、その国家の利益が否定されることを意味する。ASEANを構成する国家の政府は、一応、軍事政権のミヤンマーなど一部の国家を除いて、議会制民主主義に基づき政治が行われている。つまり、国民によって選挙で選出された代表が与党と政府を構成している。その政府の意思が、国際機関の意思決定で否定されるということになる。
 つまり、アセアンはEUが行っている方式を一部導入しようとしている。EUは、国家の主権的権限の重要な部面で、意思決定を多数決にし、というより意思決定における多数決を常態としている。つまり、これにより、他に屹立して聳え立つと形容される国家主権が否定される事態も往々にして起きている。
 伝えられる記事では、アセアンの多数決の範囲と強制力がどれほどのものか、定かでない。経済統合では、たかだか域内の関税の相互放棄でしかないFTAさえも形成できていない状態で、政治分野において、強制力のある多数決での意思決定に簡単に踏み出せるとは思えない。
 だが、アセアンが国家の主権的権限の譲渡も、民主主義や人権という高次の価値を前にして、徐々に踏み出し始めたとすると、これはきわめて興味深い動きといわざるを得ない。
 12月の会議で素案が出てくるというので、見ていたいものだ。あまり期待はできないと思っているが。
ASEAN「全会一致」見直し、憲章に「多数決」導入
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20061126i111.htm
| 児玉昌己 | - | 16:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
氷点後半 愛憎テンコ盛り
 オヤオヤ。後半は、一転前半のプロットをすっかり変えてしまった。実の子を殺した者の赤子を妻女への報復の対象として与え、養女として育てたというのは、うそで、実は、施設長の友人がさすがに、好意を持っていた病院長の妻女に忍びなく、別の子供とすり替えて渡し、妻女は知らずにこれを育てただけだと告白する。
 この1語で、前半を全面否定する展開になる。それで、後半は、夫の妻への復讐というプロットがすべて終焉し、全く別の物語として一変してしまった。
 それにしても、あの愛憎テンコ盛りはいったいなんだろう。女性のライターの、あるいは脚本家の心理の反映だろうか。前半のあまりに劇的なストーリーにみあう着地点を捜し求めた為だろうか。
 いずれにせよ、養女と入れ替えられた娘の登場、養女の本当の母や異母弟の登場など、関係する多様な人間模様が、実に「見事に」時間に合わせて、次々に投入され、後半は冷めてしまった。
 特に40年の時を重ねた後とするラスト・シーンで、主人公の養女(竹下恵子)が一緒になった夫役演じる津川雅彦は、夫婦の年齢の差がありすぎ、しかも義足の足は不自然なカメラショットで、興ざめ感をいっそう強めた。
 お粗末な演出で、ミスキャストだ。あれでは前半を演じきった子役の名演技のすべてを台無しにする。そんな不用意かつ不要な場面でありすぎた。


 
| 児玉昌己 | - | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドラマ氷点をみながら
 昨夜年はドラマ「氷点」をみていた。
 調べると、原作は三浦綾子。1964年公開とある。その悲劇性に人気があり、数度テレビや映画化されている。64年といえば、私の小6時代だ。
 かすかに記憶がある。そのころ、あちこちで耳にしていたそのドラマについて、父に聞くと、なんとなく応えてもらえなかった。子供に語るには、ストーリーが複雑で、テーマもふさわしくないと判断したからだろう。それにしても、重たいテーマだ。父の判断は誤っていなかったと思う。
 しかし、このドラマを観ていて、時代はすっかり変わったと思わざるを得ない。
 プロットにも疑問がある。医師である父親による妻女に向けられた疑惑をきっかけとした復讐の意志は、永遠に心に秘められたものであるはずで、他人の目に触れる日記などに書き残したりするだろうかということだ。ことの重大性からして、まずありえないことだ。
 それに、同じ状況が40年後の今起きているとすれば、第一、施設は、獄中で自殺した犯罪者の子供を、よりによってその殺人事件の被害者に里子として渡すことは、まずありえないだろう。虐待による復讐を招くことは十二分に考えられることである。
 たとえ、そうでなくても、長じて、主人公が養女になった経緯を知ったら、家を出るか、血が繋がらないこの養女の妹に好意を寄せる兄が、両親との関係を破綻させ、家庭内暴力に走るのではないか。
 悲劇の発端を作ったのがこの父親であるのにかかわらず、それとは対照的なほどの、このドラマにおける病院経営者である父親の存在の薄さや、そんなプロットの不自然さを感じながら、見ていた。
| 児玉昌己 | - | 10:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
余暇の読書 上杉鷹山(童門冬二)
 学会、企業訪問、推薦入試など立て続けに業務をこなし、ようやく昨日から、つかの間、解放されている。とはいえ、学会や自治体の案件などアレコレの学内外の仕事を抱えていて気分は晴れない。もっとも、定年退職でもしない限り、解放されることはないのだろうが。
 こんなときは歴史小説に限る。
 「小説上杉鷹山」上下を読んでいる。童門冬二(ふゆじ)先生のだ。
 鷹山は、米国のさる大統領が言及、激賞したということで、耳にしていたが、ゼミOBの教え子のY君が面白いですよいうので、一緒に出かけた古本屋で、たまたまあって、上下900円で購入した。サラに近い。新品なら、2700円はするもの。これならインターネットショッピングよりも安い。
 鷹山による米沢藩内の行財政改革は、政治指導とはなにか、現代企業の改革やリストラのあるべき姿をも連想させる。そんな童門先生の筆の運びだ。小藩からの婿養子としての逆境からの行財政改革。
 改革派を見つけ出し、改革の証として実際の灯火を藩内の身分秩序を超えて広げていくその方法は、涙なしには読めない。しかも、改革推進派に裏切られたり、実にその人生模様は波乱に満ちている。最近泣いていない人、感情の盛り上がりに欠ける人には、一読をお奨めしたい。
 上杉謙信で有名な米沢。西日本にしか縁者や生活範囲がない私だが、雪深く、古来、冬場は厳しい生活を強いられたこの地、一度行って見たいものだ。
| 児玉昌己 | - | 10:09 | comments(0) | trackbacks(1) |
韓国386世代のもうひとつの意味

  米国の時事週刊誌ニューズウイークは「盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の核心勢力である386世代(1990年代に30歳代で80年代に大学に通った60年代生まれの世代)が、経済成長の低迷、所得の格差拡大、同盟関係の悪化などを招き、国を苦境に陥れた」と報道した。
これは朝鮮日報社説が伝えたところだ。「国を傾かせた386世代に歴史の審判が下る日」2006/11/22 
そして社説氏は以下、彼らを断罪する。
 「386世代の政治家らは1980年代に大学のキャンパスで読んだエセ左派歴史家が説いていたとおり、「自主」反米主義を国家の路線に据えた。同盟国である米国との間を東海(日本海)ほど広げ、韓国は世界で最も力のある国との同盟をないがしろにした。一方、中国の韓国に対する関心が高まったわけでもない。 闘争することくらいしか能のなかった386世代は大韓民国を市場や歴史、同盟と戦わせようとした。」

 歴史とは、不思議なものだ。経済が目覚しい成長を遂げると、こうした国家の経済運営が生み出した余裕で、彼らに余裕を生み出させた国家経営を非難する反国家的、つまり反社会的思想集団が影響力を持つ。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は386世代を定義しているかを、みるとやはりあった。以下がその記載である。

 「韓国製のパソコンにちなんで命名された。民主化運動の闘士出身で、国家保安法違反での服役経歴を売り物にする者も多い。・・・・・386世代でノ・ムヒョン政権の主要閣僚になった者も多数いるが、彼らの時代錯誤、無見識、無策、優柔不断ぶりから批判もある。」

 日本にも、かつて全共闘世代という時代が生んだ思弁的運動集団がいた。その理想主義にもかかわらず、ソ連と社会主義的国際関係、そして民主主義にたいする驚くほど貧相な認識であった。その一部はテロ犯罪集団と化した。
 だが、彼らは政治の主導権をとることなく(もとよりその能力もなかったであろうが)、大半がその思想と実践の過去を秘め隠し普通の社会人となり、ここ数年でめでたく定年を迎え、学卒者として豊かな年金生活者となりつつある。 
 私がこのブログであえて、付け加えたかったのは、ウィキペディアも少し触れているように、386という語が、パソコンに因んだ名だということだ。
 さらに正確に言えば、20年ほど前に一世を風靡したパソコンはパソコンでも、その頭脳であるインテル社製CPUの型式386に由来するというものだ。
 すでに市場から消滅しており、今のCPUは、その1兆倍ほどの速度だろう。 つまり、386は、パソコンの頭脳としては、原始時代の代物だ。
 韓国では、386が国家の頭脳だとすれば、21世紀にあって、かの国は、目下、原始時代を享受しているということになる。いつになったら太古の時代の、つまりガラクタのCPUが21世紀という今の時代に即応した高性能CPUに置き換えられるのであろうか。
 朝鮮日報の社説氏に深く同情申し上げる。

| 児玉昌己 | - | 11:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
EUの北朝鮮制裁決定
 EUが20日ブリュッセルでの外相理事会で北朝鮮制裁を決定した。
 朝鮮日報が伝えるAFP電によると、今回の制裁により北朝鮮の核や弾道ミサイル、大量破壊兵器に関係する人物のEU域内への入国も制限される。詳細な禁輸リストや入国制限対象者の名簿は今後具体的に議論されるという。
 北朝鮮のスイス大使で金正日の金庫番、 イ・スチョルあたりの行動も厳しく制限されるだろう。大いによろしい。
 国連での北朝鮮人権非難決議でも「断固排撃」など勇ましいことを相変わらず言っているが、EUを含めた西側の制裁が徐々に、そして確実に効き始める。
 その国際的な制裁の痛みを、これから知ることになるだろう。むべなるかな。横田夫妻の29年の痛みを知れということだ。

 なお先月のブログのヒット記録4569は、昨日現在で4571と、8日を残して記録更新となりました。ご愛顧に感謝します。
| 児玉昌己 | - | 18:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
遥かなりアジア共同体
 いまアジア共同体論議が盛んである。域内でのFTAの実現や、アジア通貨の創設が検討されているようだが、内容は、域内関税の相互撤廃や通貨バスケットあるいは若干の非関税障壁の撤廃などに過ぎない。
 EUが1967年には実現した対外共通関税の制定、つまり関税同盟の形成など、はるか遠い将来の議論だし、通貨の供給量の決定権を国家が放棄するのか、その権限はアジア中央銀行が独占するのか、その主体はまるで明確でない。
 アジア共同体とは、EUを意識したものだろう。だが、EU専門家から見れば、もしアジア共同体にEUが想定されているとすれば、言葉だけが先行しているといわざるを得ない。
 軍事独裁国家や、クーデタが頻繁に起こる国家、国家間の経済格差が100対1もあるような国家を抱えるアジアで、しかも「内政干渉」などと、国家主権を盾に自国の国家主権にこだわり、人権などでは、政治的に他国の干渉を嫌う国家群も多いアジアでは、EUレベルの統合など、全く論外である。
 すなわち、最初からEUを想定した意味での「共同体」の基礎的な条件に欠く。
 「アジア共同体」などと、大きく言わずに、アジアでの「経済協力の更なる強化」といえばいいのだ。アジア諸国の各種の協力の強化を否定するものではおよそない。協力は、それ自体、十分価値があるのだから。
 共同体をどう定義するかは、自由だが、少なくともEUを想定しているとすれば、大規模な国家の主権的権限の移譲が前提となる。
 EUのコンテキストでは、加盟国の主権(的権限)をできる限り維持し、擁護するのが「協力」、加盟国が主権(的権限)を意図して放棄し、高次の機関に移譲するのが「統合」と識別できる。
  高々、国家の協力関係の強化を、おごそかに「統合」とか「共同体」とか表現し、これをEUを意識し、アジア共同体であるというとすれば、それは限りなく一般人に誤解を生む。 実際、国際機関を簡単に統合といえば、混乱を招く。これでは、真の国際統合組織であるEUが、かわいそうである。
 EU学者としては、国家間の「協力」を持って「統合」とか、「共同体」とか呼ぶ世の安易な風潮には、感心できない。
 すべては、EUを「欧州連合」と認識し、形容することで、生まれる理解の誤りだといえる。EUは欧州連邦に近い。EUにおいては、「共同体」や「共同体方式」という語は「連邦」あるいは「連邦的方式」とほぼ同義語である。
 上述の経済格差や、人権問題にくわえ、たとえば、わが国でも、外国人の参政権付与問題を見ただけで、国論が分裂的な状況にある。EUは、加盟国間での地方参政権および欧州議会参政権はEU市民権として、国境を越えて、これを10年以上も前から保障している。
 EUが進めている欧州統合の現況を、欧州議会を事例に、アジアに当てはめてみよう。
 すべての加盟国から選出されるアジア議会なるものがあって、そこでは、ラオスやシンガポール人が、自民党を含めたアジアの保守政党が国家横断的に形成され、その名簿に多数の国籍を持つ同じ政党の候補者が順位をランクされ、ミヤンマー人が日本選挙区から出馬して、当選者を出す状況である。これを想像できるあろうか。欧州議会で実際に欧州市民がやっているのはそういうものだ。
 多くの論者の期待に水をさすようで恐縮だが、EU的な経済、政治統合レベルでのアジア共同体はこの先100年たっても実現されることはないであろう。
 それは、統合の基礎的条件がアジアにはないというその一点に尽きる。なによりEUはイギリス、アイルランドなどを除き、基本的に陸続きである。いやイギリスはすでに英仏海峡トンネルで結ばれている。
 他方アジアといえば、経済格差もラオス・カンボジアと、日本とでは、100対1もある。さらに、アジアは大陸国家、半島国家、海洋国家、宗教的にも、仏教、イスラム、キリスト教とあまりに多様で、文化歴史の共通性にも欠く。13億を抱えそれだけで1個の地上の宇宙、巨大空間といえる中国が存在する。
 EUにはunity in diversity「 多様性の中の統一/一体化」という標語があるが、これをもじって言えば、アジアはdiversity in diversity「多様性の中の更なる多様性」とでも形容できよう。
これは、実際、昨年、ベルギーで在外研究中に訪問したドイツのチュービンゲン大学のルドルフ・シュタイアート(Rudolf Steiert)教授と話していて頭に浮かんだ表現だが、なるほどうまい表現だと誉められた次第だった。
 それゆえ、「共同体」というような統合概念を使用せず、国家間の緊密な協力で利害を共有化し、相互に信頼を構築していけばよいのである。
 しかして、幻想といわないまでも、遥かなりアジア共同体が、結論となる。
 
| 児玉昌己 | - | 09:14 | comments(0) | trackbacks(1) |

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