児玉昌己研究室

内外の政治と日常について想うことのあれこれを綴ります。
週末の東京出張 有楽町で会いましょう

 先週末は、日本EU学会理事会に出かけていた。三田の慶応大学だ。坂井泉水と松岡農水大臣が亡くなったのが、偶然ながら、この26日の土曜日の慶応大学の病院。もっとも場所は信濃町。
 この日は、三田のキャンパスが1時から例の麻疹騒動で全学休講措置がとられ、それも理事会のメンバーである大学関係者の話題になっていた。
 前日には、同志社の大先輩、ムーンスターの田中久義会長に声をかけていただき、新橋の名店、「鮎正」にご一緒させていただいた。田中会長は、16年ぶりの生え抜きトップとして社長就任という経歴が示す実力派の経営者。会長に就任されて東京に戻られたのだ。
 鮎の解禁は6月に入ってからで、季節には女将の郷里の島根から直送されるという。今回は静岡の鮎を賞味させていただいた。
 理事会が終わった夕刻は、前ブリュッセル支局長で、朝日新聞論説委員の脇坂さんと久しぶりに会った。ベルギーの欧州大学院大学での在外研究中に行われた同大学院の取材への協力を縁として、それ以降お付き合いさせていただいている。
 有楽町のマリオンでシンポジウムがあり、本人曰く、それに狩り出されていて、それが終わるのが7時ということ。それで、有楽町で会いましょうということになった。
 50歳以上の人なら、このせりふを思い出されることだろう。フランク永井の「有楽町で逢いましょう」だ。男女の出会いではないから「逢う」ではなく、「会う」のだが。
 あなたを待てば雨が降る 濡れて来ぬかときにかかる というあの曲だ。作詞 佐伯孝夫・作曲 吉田正。
 この歌にはたくさんの横文字が使われている。雨もいとしや唄っている甘いブルース。ビルの畔のティールーム、今日のシネマはロードショー、小窓に煙るデパートよ等々。
 昭和32年作。戦争が終わってまだ10年あまり、英語禁止の反動として佐伯孝夫が意図して選んだようにさえ思われるカタカナ英語の波だ。当時としてはハイカラな歌だったことだろう。
 父がフランク永井のファンで、自慢のソニーのオープンリールの録音機で楽しそうに聴いているのを小学生になるかならないかの私も、横で、大人の世界をなんとなく想像しながら、聴いていた。
 東京とはほとんど縁を持たずに、大学院時代はロンドンとブルージュでの海外留学をはさんで、京都で、職を得た後は長崎と久留米で研究生活を過ごしてきた。それゆえ、東京人には、映画でしばしば登場する銀座の服部時計店のビルなどは、日常の風景だろうが、私にはまぶしい。
 脇坂さんとは、当世流行のアジア共同体のことなど、ガード近くの若者風居酒屋や、イギリス風のパブで夜が更けるまで、互いに熱く語った。
 その後、 深夜11時に切り上げ、東京での定宿、品川プリンスホテルに戻り、坂井さんの訃報に接したのだ。ほろ酔い気分も一挙にさめて、追悼坂井泉水を持参したノートパソコンで書き始めた。そんな、学会理事会出張となったのだった。

 なお坂井泉水の追悼ブログでは3日間で1863件のアクセスを頂きました。
 ご冥福を心よりお祈りします。

| 児玉昌己 | - | 17:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼坂井泉水 2

 突然の訃報に接して、追悼坂井泉水を書いたが、今朝6時までの集計では、1日のヒット数としては、本ブログ最高となる800件を得た。およそ芸能関係とは場違いのブログであるのにである。
 彼女の歌が世人に与えていた影響と、突然の死の衝撃と悲しみの大きさだと思っている。 改めて、人が生きることとは何か、その意味と価値について考えるところが大きい。
 派手さを売り物とすることが当たり前の芸能界。そこで、自分でスキャンダルさえ作ってカメラの前に出たがる世の才能なきタレント族とは徹底して距離を置き、孤高を保っていた。そして自己の世界を守りつつも、他者には、はにかみながら、全身で勇気を送ったこの繊細で美貌の女性ボーカル。
 「揺れる想い」のライブを聴きながら、我々が失ったものが、本当の宝石だったという感を改めて深くしている。
 突然の訃報から時間が経つにつれて、いっそう君は輝きを増し、私たちの悲しみは深まるばかりだ。痛恨の極みとはこのことである。

追悼 坂井泉水 http://masami-kodama.jugem.jp/?eid=4389

| 児玉昌己 | - | 07:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧州統合とEUの本質は何か5 完−不可解な用語の氾濫 核心は連邦そしてフェデラリズム

 イギリスのEU政治に詳しい研究者で欧州大学院大学の教授も務めているニール・ニュージェント(Nugent)の著の表題は「EUのガバメント」としているにも関わらずである。
国家の制度ときわめて近似したEU独自の加盟国が単独では容喙(ようかい)できない、まさにガバメントというべき制度とシステムが構築されている。

 EUにおいては、EUの統治構造を指す際に使用されるトランスナショナルという語の内実が、使用されているものの認識が何であれ、実態としては、連邦主義であるということについて書いてきた。
これに関して、欧州憲法条約がEUの現下の最大の政治争点となっている。しかし欧州憲法条約が批准発効する、しないに関わらず、EUは連邦的政治組織というべきである。
ちなみに欧州憲法条約は、EU法の加盟国法への優越性、EU自体に法人格の付与、国家の主権的権限を制限する多数決原理のいっそうの拡大を明記している。すなわち、欧州憲法条約は、連邦的政治体の性格を明示的に憲法としてEUに付与する最後の装置である。
 最後に、トランスナショナルという用語に戻って言えば、繰り返すが、トランスナショナルという語はきわめて中身のない曖昧模糊たる用語である。対象とされるトランスナショナルなものの中身、内実について、そして方向性について、高々状態をあらわす形容詞に過ぎず、トランスナショナルの実態それ自身を表現する言葉はない。どのようにトランスナショナルなのかを定義し、描かない限り、全く意味不明の用語として、それはとどまる。
 しかも、EUの統治の制度、たとえば欧州理事会、閣僚理事会、欧州委員会など専門研究書がほとんど存在しないのが現状である。欧州ではそれぞれについて、専門家が存在し、多数の研究書が機関ごとに刊行されている。
実際、わが国においては、連邦的性格を最も明瞭に体現した欧州議会については、アカデミックな書としては、恩師金丸輝男と私の書2冊があるだけで、ほとんど無知に等しい。 数年前、ようやく私と山本直(現北九州大学准教授)が、国会法、もしくは衆参議院規則に相当する「欧州議会議員規則」を翻訳したレベルである。これについては、同じ時期に「議会法」を有斐閣から刊行された大石真京大教授より、「待望の翻訳」とお褒めの言葉と、訳語についての助言をいただいた。
 その後も、わが国においては、EU研究者により、欧州委員会、閣僚理事会についても最も基本的資料となる内部規則について訳す努力さえなされていないのが現状である。
 かくのごとく、EUの統治組織の基礎となる文献の翻訳と分析を怠り、十分な検討を踏まえたものとはいえないアレコレの新奇な、時に珍奇というべき外国の安直な言葉を持ち込み、とくとくとしている研究者をそこここに散見する。
 この小論の結論として、繰り返すが、上述した十分吟味検討されていない用語を軽々に使用する研究者は、最も基本的な点で、EUの本質が分かっていないし、EUの方向性と内実を曇らせるだけの役割しか果たしていないと、そう私には思える。
 欧州のあまたの研究所で当たり前として議論されているのは、日本の研究者によって使用される上記の曖昧模糊とした用語に基づく議論ではなく、Constitutionalizationであり、Federationであり、Federalismである。つまり議論の対象となっているのは、まさに加盟国を律する上位規範としての、いや最高法規性をもつEUの憲法と、その憲法を持つ政治体、つまり連邦としてのEUである。




| 児玉昌己 | - | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 坂井泉水

  坂井泉水さんが闘病中の慶応病院で、転倒して亡くなったとのニュースに接して驚いている。
 もともと本人が繊細でシャイだったため、テレビなどでその姿を見ることは全くといってなかったから、肺にまで転移するがんで闘病中ということさえ知らなかった。
 運命は時に過酷だ。天は彼女の美貌と才能を妬んだのだろうか。そうとしかいえないような突然の訃報だ。
 坂井泉水といえば、彼女の存在を知ったときに、いずみをどう書くのか、息子から聞いて確認したことがある。 
 Zardの女性ボーカルとして、たくさんの歌が愛されている。
 アニメ、スラムダンクのエンディング・テーマ曲、「マイ・フレンド」(1996)を耳にしたときのあの爽快な衝撃を鮮明に記憶している。カーステレオで、数ヶ月間聴いていたこともある。
 スラムダンクは海外を含めて大ヒットしたアニメで、この歌を覚えている人も多いことだろう。韓国でも知られていて、彼女の死は、朝鮮日報でも文化面で報じられていた。
 「あなたを想うだけで心は強くなれる、ずっと見つめているから走り続けて」
 そうパワフルに歌いだすその歌唱力は抜群だった。そのように想ってくれる人がいると、本当に生きていけると想わせるそんな曲だった。
 今、そのメロディが鮮かによみがえり、身体全体に流れている。溢れるほどに優しいその感性を表現する彼女の詩才と相合わさって、実に素晴らしい歌だった。
 織田哲郎という作曲家をえて、「もう探さない」(1991)「眠れない夜を抱いて」(1992)、「揺れる想い」(1993)など心を打つたくさんの歌を残して、風のように去った。まだこれからの将来だのに。
 人生まさに、死生(しせい)定かならず。

 

付記 2018.5.20.このブログ誤って消してしまっていて、日記より再録。

 

| 児玉昌己 | - | 18:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧州統合とEUの本質は何か4−不可解な用語の氾濫 ガバナンス

 それだけではない。統治機関の充実振りは、次に述べるAgency(庁−下位機関)においてみることが出来る。準備中のものまで入れると、実にその数、22にのぼる下位機関が置かれている。
 欧州漁業監督庁、 航空安全庁、欧州食料安全庁、欧州薬事審査庁、欧州域内市場庁、欧州化学薬品庁などがそうである。

 どのようにおもわれるだろうか。これを観て、EUの国家的相貌を気づかない人はよほど感性に乏しいものだといわざるを得ない。
 こうして相貌を明確にしつつあるEUの統治構造について、ガバナンスという用語が使用される。この日本の研究者にもよく使用されるガバナンスも、実は、曖昧模糊とした用語の1つである。
EU
法に関する司法管轄権を持つ裁判所があり、その擁護者である欧州委員会という行政府があり、立法権をもつ理事会と欧州議会とがあり、通貨の発効権限と、金利の決定を独占する欧州中央銀行もあることは指摘した。さらには上述の下位機関まで整備されつつある。
EU
が多国家間から構成される政治組織であるということに着目して、ガナバンスという表現を用いること自体は、必ずしも、誤っているわけではない。だが、上述した組織を前にして、どうしてガバメントという用語を使用しないのであろうかという素朴な問題提起もある。
ガバナンスという語は、コーポレートガバナンスやローカル・ガバナンス、あるいはワールドガバナンスというように、多義的に使用されるが、ここでは国際政治にかかわることに限定して論を進めよう。
国際政治で使用されるガバナンスが多国家を要件としているというだけなら、アセアンも国連も、主要国首脳会議(サミットG8)もガバナンスである。実際、サミットはワールドガバナンスとして言及される。だが、それらすべては、EUとは本質的に異なる主権国家の協力組織に過ぎない。EUが第1にその目的として掲げるヒト、モノ、カネの自由移動を保障する国境な欧州を形成する国際統合組織ではない。
しかも、さまざまな局面で使用されるガバナンスという、本来的に多義的で漠たる用語であるガバナンスに、これまたあいまいなトランスナショナルの言葉を付加して、transnaitonal governanceなどといえば、全く意味不明の語となる。
すなわち、曖昧な統治構造がさらに曖昧にされ、聞く側には、全くイメージを持たせない言葉となる。言い換えれば、使用するものの自己満足で終わるだけである。
 明確なEU法に規律された政治組織はガバメントそのものである。しかもそのガバメントは加盟国が単独では阻止できない統治の構造を持つ。ひとたび議決され、決定されたことにたいしては、加盟国はそれに承服する義務さえ負っている。
 日本のEU政治の研究者でEUの統治構造をガバメントと研究書や論文で明記しているものは、ほとんど筆者の知るところではない。


 
| 児玉昌己 | - | 09:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧州統合とEUの本質は何か 3−不可解な用語の氾濫 

 今も「EUは国家連合か連邦体か」などと、議論する向きがあるが、笑止である。
 EUはすでに関税同盟を形成した40年前から国家連合であることを決定的部分において否定したというべきである。
今年50周年でアチコチで言及されている欧州経済共同体を形成したローマ条約は50年前に関税同盟および加盟国の主権的権限を制限することが出来る諸制度と装置を条約上に明記している。EUについて言えば、ローマ条約に規定した関税同盟を条約の規定よりも早くこれを完成させたのである。
 関税のもつ主権的性格についていえば、関税を自由に設定できる権限は、伝統的な国家の主権的権限の重要な部分であり、現在でも多くの国家においてそうである。
 そのことは、わが国の例で言えば、鹿鳴館外交が物語っている。すわなち、鹿鳴館外交は、その主要な目標が、領事裁判権と関税自主権の奪還であったことを想起すべきである。陸奥宗光など明治の外交官が明治黎明期において必死になったその対象と目標は、西洋諸列強によって幕末期の不平等条約で奪われた屈辱的な国家の主権的権限の奪還であった。
 EUに戻って言えば、EU加盟国は120年前の日本が奪還に威信をかけたその関税自主権を国際統合組織であるEUに移譲するものであった。
EU
は、関税同盟による関税自主権のEUへの移譲を手始めとして、ここ40年、あらゆる経済部面で、連邦体の性格を多数生み出される加盟国の国内法に優越するEU2次立法で獲得している。
 EU自体が持つ各種の統合装置で、連邦的政治体の性格は強固になっている。それは、物流を支配する関税に始まり、欧州議会選挙法、司法、外交、警察つまり刑事法、そして軍事に間で及びつつある、その事実によって示されている。
 加盟国法にたいするEU法の優位性とEUが持つ独特の司法制度については、欧州司法裁判所の幾多の判例もこれを追認し、確立している。
 EUについて、すこしでもまともな教科書でかじった人は、欧州理事会、閣僚理事会、欧州委員会、欧州議会と主要機関があることは承知しておいでであろう。また欧州中央銀行、欧州投資銀行、会計監査院もある。
 通貨主権も国家の重要な主権的権限ということができるが、欧州中央銀行は、EUの唯一の発券銀行として機能し、加盟国の中央銀行をまさに手足に使っている。
 しかし欧州レベルでの各種領域における権限行使の実態は十分知られてはいない。その一端は1990年代に入り、相次ぐ条約改正で設置された各種の下位機関においてしることができる。
EU
では閣僚理事会とか欧州委員会とか欧州議会という主要機関の下に、当地の機構が整備されつつある。欧州警察機関(ユーロポール)はEU条約により導入が決まり、警察における協力機関と踵を接して、アムステルダム条約では欧州検察機構(ユーロジュスト)も導入された。いずれも、連邦警察、連邦検察機関に発展していく萌芽性を有している。


| 児玉昌己 | - | 16:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧州統合とEUの本質は何か 2−不可解な用語の氾濫 トランスナショナル

 トランスナショナルという言葉が、EUを曖昧模糊たる組織にしてしまう悪しき表現の第2にあげられる。
 トランスナショナルという言葉それ自体は、「国家を超える」とか「国家横断的」という状況を指し示す形容詞であるが、トランスナショナルのいう「国家を超える」のはいかなる意味においてかという実質や中身について語ってくれる用語ではない。それは、状態を表す形容詞であり、いつ果てるとも知れない過程processの概念である。
 問題はトランスナショナルの実質や方向性が問われなければならない。単にトランスナショナルといっただけでは、ある生物について、たとえば「毛が生えている」といったようなことをいっているだけに過ぎない。それは犬猫と人間の識別もできない。この形容詞は、たかだかそれだけの意味しか持たない用語である。
 さも特別なことのように、この語を使いEUを説明した気でいる研究者がいるが、いっていることは、たかだかそれだけのこと、つまり中身には全く触れていないのである。
 EUは67年、歴史上初めて近代国家が大規模に多国間で関税同盟を形成したその時点で、連邦的政治体の性格を獲得したというべきである。ルクセンブルグの妥協で歴史に残るドゴールとハルシュタイン欧州委員長の対立は、まさに関税同盟の関税に付随し、上がってくる関税収入をどうするのか、それが焦点の1つであった。後者は、条約上の規定に則り、欧州議会にその収入を監督させるという超国家的連邦的方向を明示的に打ち出し、国家主義者のドゴールの反発を招いた。関税収入は通常国家の懐、国庫に入るのが常識であるが、EUではそうではない。EU予算として使用されている。
 それはなぜか。簡単である。関税同盟の外にいれば形成できる関税障壁を設ける権利を奪われている。つまり産業力の乏しい国家は競争力のある他国の企業に蹂躙され、産業基盤を奪われるからである
 EU予算は「地域の均衡の取れた発展」を標榜している。関税同盟に入ることで関税障壁を設定できず、他国企業の侵入で自国企業が打撃を受ける国家や地域にその緩和策として使用されるためにある。
 イギリスの鉄の女マギーことサッチャー女史は、一見合理性があるようなスローガン、「フェア・リターン」を掲げ、負担した資金にみあう還付金を要求した。だが、女史は、EUの加盟国にありながら、EUの本質が分かっていなかったというべきである。イギリスとその産業界は、EUに加盟したことで、いながらにして無関税の広大な市場を無償で獲得していた事実を失念していたわけである。
 関税同盟に戻っていえば、関税同盟形成後、つまり経済部面での連邦的組織が成立した時点において、誰が関税から上がる収入をどのように管理するか、つまりEU予算の管理権をめぐるドゴールとハルシュタインの思想上の対立の背景にあり、ルクセンブルグの妥協の政治的議論の本質であった。


 
| 児玉昌己 | - | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧州統合とEUの本質は何か 1−不可解な用語の氾濫 ユーロピアナイゼーション

 EUと欧州統合の研究者として最近思うことは、欧州統合の正確と本質を曖昧にさせてしまう用語の多さだ。
 ヨーロッパナイゼーションという言葉がそうだ。それについては、既にブログで書いた。EUの中で、書かれ言葉だとすると、ヨーロッパ化という用語は、それ自体が本質からずれている。EUに加盟することで生じる義務は計り知れない。まさにEUが形成してきたアキコミュノテールという8万頁におよぶEU法の蓄積を受諾する義務から生じるものである。
 EUに加盟しなければ、その義務は生じない。すべてがEUに加盟することから発生するとすれば、ヨーロッパに力点があるのではなく、ユニオンナイゼーション(同盟化、すなわち連邦化現象)が注目され、取り上げられるべき言葉である。
 それは国連加盟とEU加盟の申請国に課せられる義務の大きさの相違が歴然と示している。国連加盟国は国連憲章の遵守義務があるが、北朝鮮さえも国連加盟国であることを指摘するだけでよい。国連憲章の遵守義務の重さは高々それだけのものである。
 これに対してEU加盟については、明示的に、民主主義、自由、法の支配の実態が存在するか、それが加盟の前提条件として規定されている。つまりこれに抵触する国家はEU加盟国足りえないということである。仮に北朝鮮が欧州の国家であれば、EU加盟など、国連加盟とは違い、問題外ということになる。
 ユーロピアナイゼーションという言葉に戻って言えば、それは以前からEU研究者では「コミュノタライゼーション」(共同体化)という言葉で表現されてきた。何も新しい言葉でも現象でもない。EU加盟によって、EUの制度や法的義務を負う、というそのことに尽きる。力点がどこにあるのか、力点を見失ってはならない。
なによりも、素朴に考えて、「ヨーロッパ諸国がヨーロッパ化する」ということを述べただけでも、この用語がいかに馬鹿げてナンセンスかというべきである。

 EU加盟国だけがヨーロッパを独占している印象さえ受ける。そうだとすれば、それは僭越であり傲慢であるというべきであろう。欧州でも日本でも、平気で「ヨーロッパ化」などという言葉を使うものがいる。彼らは、ヨーロッパという語をEUが独占しているという意味を帯びることにたいして、鈍感であること、いわば言葉に対する想像力もなければ、感性もないというべきであろう。



 






| 児玉昌己 | - | 17:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
アジアの単一通貨は可能か ACUの研究会
 ACUという言葉を耳にされたことあるだろうか。Asian Currency Unitアジア通貨(計算単位)の略だ。これを知っている人は相当のアジア、欧州通だろう。
 EUのユーロの前身ともいうべきEuropean Currency Unit(ECU)というものがかつて存在したが、そのアジア版を作ろうという動きが政府部内にもある。アジア共同体設立の構想の1つとして位置づけられている。
 大分大学に3年前から着任されているイギリス人の若手研究者で、経済学部助教授いや、准教授のスティーブ・デイ先生から、同大学と欧州EU協会主催、欧州委員会駐日代表部後援で、それ関連のシンポジウムを開くという連絡をうけた。(ちなみに、今年度から助教授という語が日本から一斉に消え、准教授に置き換わっている)。
 私は、日本ではブラックボックスともいうべきEUの議会である欧州議会の研究者だが、デイ先生は私同様にEUの研究者で、より詳細に言えば、欧州議会を構成する欧州政党とその上部団体の研究者である。近接する領域のEU研究者が九州に偶然存在するということで、最大の受益者かもしれない。研究者のネットワークはありがたいものだ。
 6月20日に、九州大学の欧州通貨専門家の岩田教授、アジア開発銀行などの研究者の参加を得て、アジア共通通貨のシンポが開催される。このアジア通貨、はたしてユーロみたいに発展するのか。あるいは構想だけの代物で終わるのか。
 「アジア共同体」という言葉には、ブログ「遥かなりアジア共同体」(2006.11.21)でも書いたように、いかにも言葉先行の浮薄な雰囲気と印象を抱かせる。しかも「大東亜共栄圏」という用語を過去に持つ日本人としては、その軽軽な使用には若干の心理的な抵抗感を持っている。もとより今のアジア共同体構想にはそうした帝国主義的イデオロギーは存在しないとも同時に思っているのだが。
  経済には強くない政治学者だが、ともあれ、どの程度のことが構想されているのか、そのシンポジウム、平日だが何とか時間を見つけて出かけたいと思っている。

 
| 児玉昌己 | - | 09:26 | comments(0) | trackbacks(1) |
欧州大学院大学留学記(1989年)のアップロードのお知らせ

  ベルギーのブルージュにある欧州大学院大学に留学して四半世紀が過ぎました。その留学記「懐かしきヨーロッパ大学の頃」は、常勤教員として初めて教壇にたった純心短大(現長崎純心大学)時代に、学園誌「草人」に書いたものです。
 ずいぶん昔のことで失念していたのですが、最近、同門で若い時代机を並べた早稲田の福田耕治先生から、留学希望の院生に見せたいという依頼がありました。 
 地方の小さな大学の学園誌に書いたものという性格から、図書館でもまず手に入ることもないもので、欧州統合における教育政策や欧州統合を専門とする現地欧州の高等教育機関に関心のある人の役立つのではと、今回、ホームページにアップしたところです。また、このジュゲムのブログでも見れるようにしています。

 下記のサイトアドレスを貼り付ければ、開き、印刷もできます。関心があれば、どうぞ。

http://www1.cncm.ne.jp/~kodama/pub/ryugakuki.pdf

 欧州大学院大学は、LSE、パリ政治学院、カレル大学、ハイデルベルグ大学など出た後、厳しい選抜を経て学ぶというように、EUの発展とともにあり、欧州統合に関する第1級の高等教育と研究の場として、欧州有数の名門校となっています。実際、欧州最古(the oldest)EUの研究教育機関と金のネームプレートで、玄関に記載し、その歴史を誇示しています。
 なお欧州大学院大学留学から20年を経て、2004年の夏に勤務校から1年間の在外研究の機会を得て、母校に里帰りした次第です。
 2005年2月には、朝日新聞ブリュッセル支局長の脇阪紀行現論説委員がブルージュの欧州大学院大学について取材したいといことで、来学され、同氏の取材に協力しました。 その後ほどなくして、日本でおそらく初めてとなる本格的なベルギーの欧州大学院大学に関する記事が同紙2005年2月15日付に「欧州人国境越えて育つ」で掲載されました。ちなみに、その記事は仏語訳をされて、欧州大学院大学の以下のホームページでも見ることができます。(追記2018年現在では削除)
 http://news.coleurop.be/2005/02/le_collge_en_ja.html
 この記事については、脇坂紀行「大欧州の時代」岩波新書2006年にほぼ同じ形で、収録されています。
 留学記では「ヨーロッパ大学」と表記していますが、純然たる修士レベルの大学院で、近年、私は欧州大学院大学の表記で統一しております。

| 児玉昌己 | - | 07:47 | comments(0) | trackbacks(0) |

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