児玉昌己研究室

内外の政治と日常について想うことのあれこれを綴ります。
戦いすんで日が暮れて―07年参院選での自民大惨敗で想うこと6完 
第21回07参院開票解説をする筆者NIBにて

 


 参院議長は、今回の参院選挙の結果の当然の帰結として、民主党が確実に握る。それだけではない。参院の常任委員会のポストは、軒並み民主が握る。衆院では自民公明の与党が3分の2の多数を占めているがゆえ、参院で法案が否決されても、衆院での再可決の可能性は残している。だが、これはあくまで最重要法案に対する最後の手段であり、再々使える方法ではない。
 それになにより、結束した野党により、民主他、衆院での野党の参院における過半数という状況を受けて、史上初となる総理の問責決議案が可決される日が目前に迫ったということである。
 これまで、たとえば1998年の額賀防衛庁長官の事例に見られるように、閣僚に対する問責決議案は過去にもあり、可決されたこともあった。また首相にもたびたび向けられている。だが、もし提出されれば、可決される可能性が確実だという意味で、首相に向けられるのは、戦後憲政史上初めてのこととなる。過去の実績についてはウイキペディア参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%8F%E8%B2%AC%E6%B1%BA%E8%AD%B0%E6%A1%88
 参院のこの決議案は、法的拘束力はないものの、タダでさえ大打撃を受けている安倍内閣の威信は大いに揺らぐであろう。
 これから衆参両院で起きる事態は、戦後の憲政史上初の出来事として、憲法や政治学の教科書に記述されていくことだろう。今後の政局は、その意味では、我々が初めて経験する未知の時代に入っていく。
 次々に飛び込む情報で騒然とした中、ぶっつけ本番で進行する参院選挙の特別番組を報じる日テレ系の長崎国際テレビNIBのスタジオで、福田部長の指揮の下、ベテランの佐藤アナに並んで、コメンテイターの席に座り、秒単位でコメントを求められる緊張した、総計7時間に及ぶ時間を過ごして、未明に帰宅し、一夜明けた。
 まだ完全にはその興奮が冷め切っていない頭のなかで、今も浮かんでくる様々な選挙模様と候補者や選対関係者の表情の映像とともに、未知と遭遇する今後の日本の政治の姿などを、ひとり想っている。


| 児玉昌己 | - | 10:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
 戦いすんで日が暮れて―07年参院選での自民大惨敗で想うこと5 

このブログ記事の冒頭で、私が長く知ってきた政治が終ったと書いたが、それは、まさに中選挙区制度で形成され、その制度で選出された複数の政党構成が、選挙制度の小選挙区化でいやおうなく終焉を迎え、2大政党に収斂していくことを意味していた。そして、小選挙区制度導入の意図通りの方向で、2大政党制が進み始めているという、それまで漠然として持っていた皮膚感覚を、確信に変えたこと、そのことにあった。
私は膨大な死票を出す小選挙区制度には強い疑義を持っている。膨大な死票を確実に有無小選挙区制度論者は反民主主義者だと思っている。それゆえ長くこの制度の不備を指摘してきた。だが、地方に住む政治学者である私の個人的な希望や危惧とは無関係に、政治は進む。
 ただし、今度の選挙結果で、1つ価値があったことをあげよと問われれば、参院が本来の機能をはたす時がまさに到来したことである。選挙直前まで、参院廃止論が在京の学者やTVコメンテイターなどから指摘されてきたが、そうした意見が一瞬にして消えうせたことである。 
つまり参院無用論や「参院は政権選択の選挙」ではないという一見もっともらしい意見が、いかに皮相な愚論であったかということを示したことである。そして参院と参院選挙の政治への影響について、我々は初めてしっかりと学ぶ機会を得たということであろう。
 新憲法により参院が新設導入されてしばらく後の1956年、自民党参院議員の松野鶴平が、それまで緑風会が得ていた議長職を初めて得た。参院の与党支配という政党政治の影響を受ける現象は、この頃から始まったといえるわけで、今起きた新しい現象ではないのである。
 いずれにせよ、以降、51年に渡り自民党は、参院議長職を保持してきた。しかし、この自民党による参院の議長職支配がようやく終焉する。

 

| 児玉昌己 | - | 09:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
戦いすんで日が暮れて―07年参院選での自民大惨敗で想うこと4

今回の自民の大敗北には、制度的要因も指摘できる。衆院と参院で中選挙区や全国区が改められて、すでに10年の時を超える。この間、衆院では小選挙区比例代表制度の導入で、確実に2大政党制が進み、政治の選択の余地は、自民か民主かというように、2大政党政治の選択しか残されなくなっている。
 自民と連立を組む公明が今回の選挙の大敗北と、公明自身への影響について、「全ては自民党の責任による」と答えた。このことも、2大政党制へと進む政治状況の中で、公明が自民と連立を組み、政権政党の側に身を置いたために付随する必然的現象を示しているといえる。つまりそうした政治状況での同党の選択の余地のなさを示すものであった。
この現象は、与党と化した公明党にだけにいえることではなく、社民や、共産など他の少数政党も同様である。政権への距離において、公明とは対照的に最も遠い距離にある共産党についても例外ではない。
衆院での小選挙区制度はもとより、参院においても、実質的に小選挙区化が進んでいる。議員の総定数が削減される中、58の一人区では、まさに1議席を争う一人区、つまり小選挙区である。参院の選挙制度は、都市部では、複数の議席があるので、基本的には大選挙区制であるのは違いないのだが、小選挙区制の性格を色濃く残している。
衆議院ではもとより、参院でも小選挙区での勝敗は、半数改選の参院選の勝敗の帰趨に決定的に影響を及ぼす。ここで失うような政党では、選挙には勝てない。
そして、この結果、1議席しかない選挙区選挙では、共産党が立てる候補者にたいしても、同党の支持者があきらかに同党の候補に投じても、それは国政に代表を選出するという意味では、死票化するということを知っている。それゆえ、共産党支持者の多くが、次善の策として、よりましな他党の候補者、今回の場合民主党に投じている。そのことがまさに小選挙区比例代表制による2大政党制化が進んでいることを何より示すものである。
共産は、比例選挙でも以前に比べて議席を獲得できなっており、このままでは、共産党は、早晩、政党としての存在意義を失ってしまうことになる。選挙のたびに「時間がなかった」という、いつもながらの言い訳も、戦後60年もたてば、言い訳を超えて単なる無責任な念仏に過ぎなくなる。

 

| 児玉昌己 | - | 21:56 | comments(0) | trackbacks(1) |
戦いすんで日が暮れて―07年参院選での自民大惨敗で想うこと3

 今回の選挙で国民から否定されたのは、有力閣僚の政治とカネの問題を不問にしながら、実に安易に私企業による公共政策の肩代わりを「善なるもの」として打ち出した小泉・安倍政治である。
 私企業が、利潤が上がらない地方を切り捨てにするのは、事前に危惧されていたことであり、その危惧がここ数年でまさに事実として提示されていた。つまり、理念として小泉総理が語った理想が、現実政治では意図するほどにも実現されないという現実の厳しさであり、そうした期待先行で政治を進めた小泉政治のお粗末さであろう。
 安倍氏は、ポピュリストの前首相が始めた小泉劇場で獲得した衆院における自民党の圧倒的多数の数の優位を背景に、戦後60年間タブーとした憲法改正にさえ、本格的に動き出した。
 ところが、相次ぐ増税で、生活基盤の整備どころか、その基盤を掘り崩される状況で、国民は憲法改正などとても受け入れられる状況ではなかったといえる。さらに安倍政権への不信を高めたのは、その後の政局運営である。その実際は、強行採決など自民の数による横暴であった。
 安倍政権と官邸のお粗末さは、こうした強権的政治にたいする庶民の不満に対する感覚の麻痺に負っているといえる。政権のスポークスマンである塩崎恭久官房長官の、鼻をくくったような、タウンミーティングやらせ問題から、佐田玄一郎行政改革担当相、松岡、赤城と続く農水相の政治資金や閣僚の金銭問題に対するあの一連の無責任な答弁にあり、それを連発されることで、国民は安倍政権に対する憤りを強めたといえる。
 閣僚の任免権限は当然ながら総理にあり、まさに閣僚の問題は任免権者の総理の責任であり、そうした問題閣僚を選んだ安倍氏の指導力が第一に問題とされる。
 実際、自殺した松岡氏に続く同じポストに全く前者と同じ事務所経費という政治資金の使用の不透明さを説明できない大臣を指名することについては、総理は一体何をやっているのかと、唖然とさせられた。そんな無神経というより無責任な人事であり、どうしてそんな閣僚の問題が露見したときに閣僚の罷免を行わなかったかというのが大方の反応であった。指導者としての資質として重要な決断力を、なにより疑われる行動に終始した。
 だが、同時に、閣僚任免権者としての総理の責任のみならず、政権の顔として毎日TVでの記者会見を通してお茶の間に顔を見せる塩崎官房長官の対応のまずさ、お粗末さは、歴代政権の担当者と比較して、特記されるべきものであったといえる。
 多くの閣僚政治家が世襲化、貴族化し、庶民感覚を完全に喪失しているところに問題があるが、その出自、出身の背景が何であれ、政治家の資質は、政治家の重要な要件でなければならない。
 仮に官房長官が福田康夫氏であったら、事情は随分違ったはずだ。政治家の資質をまさに問う官房長官の対応
であった。

| 児玉昌己 | - | 12:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
 戦いすんで日が暮れて―07年参院選での自民大惨敗で想うこと2

中期的な要素をいえば、負けたのは安倍総理であるとともに、なにより小泉前首相と彼の政治それ自体でもあった。
 安倍総理は、小泉の後継者そのものであったのだから。小泉は風を読み、大逆風にならないうちに総理の職を安倍に譲った。そのことで、表面的には、そして直接的には、傷つくことはなかった。だが、負けたのは明らかに小泉前首相とその政治であると断言できる。
 小泉氏は表面的には、いまだタレント的な意味で、高い人気を誇るが、格差社会をこれほど大規模に進めた政治家もいなかった。その結果が、富める者はますます富み、貧しきものの生活環環境はさらに悪化した。わずか数年でそれを国民は身をもって体感した。
 今年6月の住民税を見て、重税感を抱かなかったとすれば、それは少なくとも庶民ではない。地方は切り捨てられたうえに、民の論理が、市場の論理がいやおうなく、公にとって代わった。それが善で、それが国家の意思であると小泉が公言し、大規模にこれを実践したからである。
 その結果、危惧されていたごとく、地方や老人は切り捨てられた。介護事業では、民が公に代わり適切に機能させてくれると小泉氏がいった状況とは全く逆の状況が多発した。不正請求を続けたコムスンに見られたように、逆に、私企業は自動的には公企業にとって代わりえないことが示された。私が公に代わって公平に業務を推進できるかは、わずかに私のモラルにかかっているだけであることも、暴露した。
 モラルなき私企業は、私的利潤を追求するだけの業務として肩代わりした事業を利用する組織でしかなく、つまり国税を食い物にするだけの存在でしかないことを、現実を持って我々に突きつけた。

 

| 児玉昌己 | - | 12:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
戦いすんで日が暮れて―自民大惨敗1

 選挙が済んで2つのことを想っていた。
 1つは「無残」という言葉である。第21回の参院選挙結果を表現するのにこれほど適切な表現はないだろう。
 スタジオで、驚くほど早い当選確実が、知名度で突出した自民の小嶺候補ではなく、民主の大久保候補に出た頃から、スタジオを後にし、未明タクシーでベッドタウンにある自宅に帰る1時半まで、ずっとそれを思い続けていたのは、この言葉である。
 足掛け7年にわたる小泉・安倍政治の政治の実践の結果として、自民に向けられた無残さであり、他方で、これを選んだ有権者の側の無残さという2つの意味においての。

 有権者のバランス感覚のよさといえなくもないが、何より無残という言葉が先に頭に浮かんでいた。
 もうひとつ想っていたのは、わずか2年前の自民圧勝の衆院選挙にもかかわらず、今回の激変した世論。政治は一寸先は闇だということを意識させたが、同時に長期的な政治の傾向としては、それとは逆に半世紀を生きてきて私が知っている、いわゆる戦後政治とそのパターンが確実に終焉したこと、そして新しい時代の政治とそのスタイルが確立したことへの確信であった。そして、それが、今後不可逆的に続くという想いであった。
 自民の敗因ははっきりしている。短期と中期の2つの時間的な要因がある。もう1つは選挙制度の変更というさらに長期的な政治の流れの中で今回の大敗北という現象がある。
 時間的な要素から見ていこう。
 短期間で見れば、大規模な年金の記載漏れという、一種自民だけに責任を押し付けるには気の毒な要素があったが、久間発言に代表される、その後の閣僚の続出する問題発言、事務所経費、政治資金の使い方のずさんさが次々に暴露されて、有力閣僚が自殺したり、辞職したりで、有権者の激しい不信を買った。
  しかも、松岡農水大臣の後を襲って就任した赤城議員については、スキャンダルが続出した。事務所経費問題、つまり政治資金問題がそれで、本人のそれについての驚くほどの無責任な答弁、これがマイナスに働いた。
 地元で選挙を戦っている自民党候補からすると、背中から、何度もナイフを突きつけられた感じであったことだろう。
 久間発言については、もとより被爆県の長崎として、これは、原爆投下の責任と、全体としての当時の戦争指導者の戦争責任についての怒りという、これまで秘められてほとんど表わされてこなかった県民感情に、火をつけてしまった。
 被爆県長崎では、被爆者は多く保守党支持者もいて、必ずしも民主の支持者ばかりではない。しかし、保革のイデオロギーを超え、「原爆許すまじ」で生きてきた本県の有権者には、これは無責任を通り超えて、裏切りに近い発言であったことは間違いない。
 もとより、思想信条の自由は憲法上に明記された権利であるが、現職の防衛大臣という立場では、そして、非核を国是とする国家と政府にあっては、なされてはならない発言であったといえる。
 年金の記載記録紛失の一連の問題に対する対応の遅さや、加えて度重なる閣僚の不祥事とこの問題閣僚を罷免しせず、これを放置し続ける安倍首相の驚くべき不決断と指導力の欠如によって、政治状況は激変した。
 この結果、少なくとも3ヶ月前まで、やれると安倍政権が構想していた憲法改正は、自民の非難の渦巻く怒りの声の前で、問題外として、選挙の争点から意識的に消されていったのは、当然のことであった。
 実際、政局は、安倍首相お得意の憲法改正論議どころではなくなっていたのである。

| 児玉昌己 | - | 12:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
いざ21回参院選本番 
 いよいよ第21回参院選挙である。
 選挙の本質については、色々格言があるが、この日、次の言葉を読者の皆さんに送ろう。
 保守政治家、故大野伴睦(ばんぼく1890年9月20日 - 1964年5月29日)の言葉だ。彼は選挙とその結果を巧みに以下表現した。
 「サルは木から落ちてもサルだが、代議士は選挙に負ければタダの人だ」と。
 面白いことは、これにたいして、後年江田五月が茶々を入れた。
 日本社会党の委員長代行、書記長を務めた江田三郎の長子で、東大卒業、横浜地裁の判事の経歴をもつ江田ジュニアはいう。
 「前段はいいが後半は誤りで、選挙に落ちれば、ただの人どころか、失職者だ」と。
 政治家はその人生をかけて、立候補し、選挙戦を戦う。そして、早ければ今夜、遅くとも明日の未明までにその結果が出る。
 その結果は有権者の意思である。中選挙区制度を廃止し、小選挙区比例代表制を導入し、参院でも現在、総数58の1人区を設定したために出る膨大な死票という小選挙区制度における民主主義の度合いの問題を抱えてはいる。
 だが、それでも、参院選であれ、衆院選であれ、選挙で示される有権者の民意の上に立つ価値など、代表民主政治下では存在しない。
 先に書いたブログの言葉を再び繰り返すが、代議制下の政治のこの素朴な原則と民主主義の定理を、与野党全ての政治家と立候補者は、肝に銘じるべきときである。
| 児玉昌己 | - | 09:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選直前解説
参院選直前解説
| 児玉昌己 | - | 02:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選挙―有権者の意思こそ代表民主政における最高位の価値 下
 以前計算したことがあるが、イギリスでは、小選挙区とは、1議席あたりの有権者数が7万程度で、市会議員ほどにも議員がいることを前提として成立している制度である。それでも膨大な死票が出て、イギリスは議会制に父ではあっても、議会制の民主主義の父ではないといわれるほどだ。
イギリスの学者に1議席あたりの有権者数が40万という日本の小選挙区制度における議席あたりの有権者数を話すと、驚いた顔をして、それは小選挙区制ではないと即座に応じていた。
 こう書くと、それは比例に議席を配分しているからだ、だから比例を削減せよというこれまた一知半解な議論をする輩が出てきそうだ。
 とんでもない議論である。そうではなく比例こそが有権者の声を政治に確実に、そして正確に表現できる唯一の方法である。それゆえ、むしろ、総定員を増やし、比例の枠を拡大せよというのが私の意見だ。
 日本の議員数は、欧州からみて、むしろ圧倒的に少ない。米国の上下院だけを見ている学者だけが、日本は多いという。無知蒙昧とはこのことである。
 話を衆院と参院の機能の相違に戻そう。
 衆院における政治の暴走を抑制するのが、まさに現代の日本の統治機構にあっては、参院である。いや、参院しかないというべきであろう。
 しかも衆院選とは違い、3年越しに総理の意思に関わらず、その意思とは無関係に必ずやって来る。衆院とはちがい、誰が総理であっても、どの党が政権与党であっても、解散権限も行使できず、タイミングも選べない。しかも半数を改選するという、ショックを和らげる絶妙な方法で。なんと素晴らしい制度を、考え出したことか。天才的だといえるだろう。
 院の意思が分かれることが、民主主義の停滞みたいにいう皮相な連中がいる。だが、両院の意思が分かれることは十分ありうると、憲法を立案したものたちは、理解し、想定していた。両院協議会はその制度的証拠である。これが、2院制をつなぐ柱であり、参院の機能でもある。 
 参院無用論、参院廃止論や、これを唱える政治家は、衆院に力点を異常に置くものであり、自己に都合がいいように、数の横暴で、恒久的な衆院支配を密かに意図しているのではないかという疑念さえ私には抱かせる。
 ともあれ、国民の意思が直接政治家に突きつけられるという意味では、参院選挙も衆院選挙も差はない。 かくして、参院の、そして参院選の意義はきわめて大きいものがあるといえる。 
 結論を言えば、参院選であれ、衆院選であれ、選挙で示される有権者の民意よりも上位に立つ価値など、代表民主政治下では存在しない。
 代議制下の政治のこの素朴な原則と民主主義の定理を、与野党全ての政治家と立候補者は、肝に銘じるべきときである。
 
| 児玉昌己 | - | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選挙―有権者の意思こそ代表民主政における最高位の価値 中
 参院の政党化現象を悪しきものととらえる政治家や政治学者がいる。だが、私に言わせれば、この手の政治家の議論を重視しない。なぜなら、政党を通した議会制民主主義の政治においては、これは不可避の現象であり、政党政治から発生する当然の動きであるといえるからである。
 貴族院時代の属性で、何かしら参院は超党派的存在であるべきだということは、参院を貴族院の延長でみていることの証である。貴族院的な旧来の発想で、参院を見るなかれ、ということである。ちなみに、貴族院が、超党派的で、公平であったかというと、きわめて疑わしい。むしろその名のごとく、貴族階級の意思と利益の擁護者であったというべきである。 
 衆院でなされる単独の政治がいいのか。冗談だろう。衆院の政治の実態を直視すべきである。実に多くの弊害を目にする。時にそれは、数を頼みとした横暴な国会運営がたびたび見られる。強行採決は、まさにこの典型的事例である。
 衆院の1院制であると仮定しよう。もし、総選挙で優位を占めれば、4年間たとえよほどのヘマをしても、優位に立った政党は、政治権力を独占できる。この間、基本的には誰も権力を掣肘したり、コントロールすることができない。
 まして、小選挙区にグロテスクに傾斜した選挙制度を導入して、10年、国民の政治の選択の幅は著しく狭められた。小政党は選挙区ではほぼ消滅し、かろうじて比例で生き残っている状況である。そして2大政党化が進んでいる。しかも政権与党の優位の状況化で。
 ちなみに衆院では福岡や長崎1区では有権者は40万ほどいて、そのうちの、わずか30%も満たないものが、その選挙区の代表者である。どの選挙区もその程度の支持でその選挙区を代表している。
 なおイギリスでは下院議員は650ほどいて、人口は日本の半分がゆえに、日本では1400名の衆院議員がいてもいい勘定になる。衆院議員が多いとこれを削減する意見もあるが、これも欧州の政治に全く無知な在京の、メディアに顔が利くだけの学者の一知半解の助言に踊らされたものだ。
 官僚の数を減らすのと国民の代表を減らすのとは訳が違う。行財政改革の議論で政治家の数を同一視し、それを削減すべきとする議論は、驚くほど皮相で、民主主義の死に繋がる危険をはらんでいる。
 そしてそれを極めて残念ながら推進してきたのが大メディアであり、政治家であり、無様なほどの見識しかない学者たちであった。これを我々は、しっかり記憶しておく必要がある。参院廃止論も、深い思慮ではなく、たんなる気分で語って、同じく浮薄な議論であるといえる。
 
| 児玉昌己 | - | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) |

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