児玉昌己研究室

内外の政治と日常について想うことのあれこれを綴ります。
8月最終日 07年
いく夏や 流れる汗も 退(ひ)かぬ間に
秋立ちて 暦ばかりの 秋たり哉     

| 児玉昌己 | - | 07:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
米映画「スミス都へ行く」(1939)を楽しむ

  この酷暑のさなか、大学の業務が一段落ついたこともあり、参院選を契機としてクローズアップされてきた選挙制度の問題について、ここ1週間ほど結構な量を書いていたが、ストレスもかかる。
 著作権切れのため、格安な料金で古典的名画を集め販売されているDVD集の中から、買っておいたジェームズ・スチュアート主演「スミス都へ行く」(1939)、原題Mr. Smith Goes to Washingtonを取り出してきて、観る。
 この映画、邦語のタイトルが面白くない。ワシントンは単なる都ではなく、政治の首都。しかも上院議員としてでてゆく。それゆえ「スミス登院する」とすべきだろう。
 まあ、古典だからそう息巻くこともあるまいが。米国政治を扱ったいまや古典中の古典というべき作品だ。
 中身については、書かないでおこう。わずか500円でどこの書店でも購入できるので、簡便に楽しめるし、観て良かったということ間違いない。
 上院議員に指名されたスミスを演じるジェームズ・スチュアートの好演はいうまでもないが、田舎出身で、別世界から迷い込んだような純粋な彼を、議員秘書として献身的に支える都会出身のクラリッサ役のジーン・アーサーがいい。
 今回知ったのだが、実は、映画の出演者一覧では、ジェームズ・スチュアートではなく、ジーン・アーサーの名が最初に出てくるのだ。彼女はアラン・ラッド主演のこれまた不朽の名作「シェーン」(1953年)にも出てくる。
 この両名、80歳を優に超えて、ほぼ同じ時期に生き、そして没する。特にジーンは91歳と天寿を全うする。若い日にこの名作で共演して、その後の長い人生の中で、2人は交差する部分があったのだろうか。そんなことを考えていた。 いずれにせよ、この映画、政治とは何か、を考えさせる名映画だとだけ、言っておこう。
 ジョージ・ブッシュなどという、お世辞にも知的とはいえない21世紀初頭の米大統領の、戦闘機で降り立った空母での、イラク戦「勝利」の演説といった、安げなパフォーマンスに馴れてしまうと、米映画の良心というべき70年余り前のこの作品で、米上院や、スミスが読み上げるアメリカ合衆国憲法が実に新鮮だ。

| 児玉昌己 | - | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選総括―私の結論 小選挙区比例代表連用制を目指せ 完

 感情的議論ではなく、具体的数字でいおう。前回の20回参院選挙結果で、国民の政治的選好をより明瞭に反映する比例に注目していえば、獲得した票の割合は、自民30.03.民主34.16、公明15.41、共産7.80などとなっている。つまり36%が2大政党支持者以外である。完全な比例代表で定員を100議席だとすると、36議席は2大政党以外の議員ということになる。
 驚くべき多くの少数政党支持者が存在するとは思われないだろうか。勝った負けたと騒がれる2大政党でも、民意を完全に別の、より正確な制度で評価しなおすと、高々この程度である。
 小選挙区比例代表並立制度の下で、風前の灯となっている少数政党はもとより、そして大自民も、民主も、民主主義政党であることを標榜するならば、どうして彼らも、比例代表制を打ち出さないかである。真の民主主義政党と自称するのであれば、そこに踏み込むべきである。
 欧州は国政選挙では、比例が常態である。欧州議会選挙でも同様である。イギリスだけが遅れて、小選挙区を維持し、内心、コンプレックスをもっている。だが、そのイギリスの政治の議論の方向性は、比例の導入である。
 実際、すでに欧州議会のイギリス選挙区での選挙では、大陸の欧州諸国に習い、まず北アイルランド選挙区で、比例を導入し、その後、実際、労働党政権は、1999年の欧州議会選挙で、過剰代表がゆえに、保守党に食われることを覚悟で(実際34議席減となったのだが)、比例制を完全に実施した。イギリスも国政選挙でもいつの日か完全小選挙区制を廃止し、比例に向かうことだろう。
 ちなみに、民主党の小沢代表は小選挙区論者で、選挙制度についていえば、私の支持するところではない。彼が、真に政治の民主主義を信じるものであるらば、小選挙区制度の反民主主義的性格を理解するであろうと期待している。
 選挙における比例こそが、有権者が投じた票が政治に確実に無駄なく反映されるという意味で、最も民主主義に叶った方法である。では、如何なる比例制がよいか。
 当面、選挙制度改革の本丸というべき衆院選挙についていえば、ドイツ型の小選挙区比例代表連用(併用制とも言う)制が、考えら得る実績のある方法として、ベストである。この制度については、野田昌吾教授(大阪市立大)が最も詳しく、かつ分かりやすい解説をしている。
 参院は完全比例もいい。
 衆院選挙制度改革にもどっていえば、ドイツ型の連用制は、小選挙区比例代表連用制とネーミングされているものの、実は類型的に比例代表制であり、選挙制度の比重の重さから、その主従関係に即して言えば、「比例代表制小選挙区併用型」と呼ぶべき制度である。なぜなら前議席は、まず比例で各党に得票に応じて配分され、それと並行しつつ小選挙区の勝者に自動的に議席を与えているのである。
 小選挙区制が持つ候補者の見える顔という要素も加味し、政党を中心として投票、選出される比例にある顔のない政党候補者という批判を回避し、個人の政治家の魅力も、投票に当たって、同時に採り入れうる制度である。
 米国や英国型の小選挙区制度は日本にはなじまない。選挙制度の歴史から見て、そして日本の政治風土からみて、民主主義を保障するものとしては、遅れた制度であり、イギリス自民党が批判するように、不適切な制度といわざるを得ない。
 出所は失念したが、イギリスは議会制の父ではあっても、民主的議会の父では、必ずしもないと、イギリスの政治の教科書にもあった。
 我々は、ヨーロッパの同じ敗戦国家のドイツが生み出した知恵を活用するときである。

| 児玉昌己 | - | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選総括  私の結論1

結論をいうべき時が来た。
 小選挙区制の導入で、日本でここ10年明白になってきたことは、中選挙区制の下で一定度確保されてきた少数意見が、かくも見事に国政から駆逐されつつあるということである。これは、きわめて危険な事実である。しかも、選挙制度の改革でなされてきたことは、本来の民主主義的な改革ではなく、改悪と呼ばれるべき方法である。
 すなわち、常に比例の部分が削減されてきた。あたかも、イギリスのような全くアナクロな完全小選挙区制が善であり正であるというような誤った理解に基づき、それがベストだという気配さえもある。
 公明も、共産も、そして社民も少数政党はこの点をもっと強調すべきである。2大政党制がいいというのは、それ自体が、一個の政治的イデオロギーに過ぎない。そしてそのイデオロギーは、少数意見が十分に議席として保証されていなという条件下では、反民主主義的で危険な思想である。
 はっきりいえば、国政選挙のたびに、日本から政治の選択の余地が少なくなり、国政の場から少数意見が物理的に消されようとしている。しかも定数削減の議論とあわせて考えれば、政治的には、地方の切捨てという美しい日本を破壊する方向にシフトする性向を持つ制度である。
 安倍総理はわずか9ヶ月で看板にしていた政治スローガンの「美しい国」を使うことを辞めたという。選挙で大惨敗を喫しても、権力の座にあり続けるこの人については、日本人の政治倫理のありかた、責任のとり方からして、美しくない。
 だが、この全く美しくない指導者が、自己の政治スローガンに使うが使わまいが、広島、長崎を経験しても、なおも立派に復興し、世界第2位の国力にのし上げる勤勉で優秀な国民を持つ、もともと美しい国なのだ。その美しい国家を支える地方がいま崩壊しようとしている。 

| 児玉昌己 | - | 11:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選総括−共産党の場合4

 既に現憲法下での選挙では、60年が経過してしまった。この党は、1970年代の最盛期を境に党勢は坂道を転げ落ちるようだ。そして選挙のたびに「時間がなかった」という。問題の本質は、そんなことではない。時間はこれまでも、そして選挙まで十分あったが、抵抗勢力と自己を規定し、批判勢力に安住し、自ら、本気で政権に迫る気構えがなかったからだといえる。 この点、自民と、原則を緩和して連立を組んだ公明との違いである。
 実際、公明は何より政権政党としての蜜の味を味わったがゆえに、 小選挙区下での選挙では、危機感においては、公明党の方が強い。自民も公明も参院の敗戦の総括を早々に発表したのはその現われである。が、共産党からいまだ出たことを寡聞にして知らない。 この党の問題は、この危機意識の薄さである。  
 政治学的にいえば、政党とは、政権奪取を目的とした私的結社である。逆にいえば、政権奪取を目的としていない政党は形容矛盾で政党ではない。共産党の場合、共産主義という宗教を掲げる宗教集団ということになる。 
 この党が良く主張するように、比例での有権者からの支持は維持できたなどと分析しても、政治的には意味がない。議席を国政選挙のたびに減らしている現実があるからだ。なにより政治は数の世界なのである。しかも、選挙区では、擁立した候補者たちは、泡沫候補といえる程度の集票実績で、全体で、6億6900万円もの供託金を没収されている。
 しかも、共産党はよく野党の得票率は与党のそれを上回っているという類の議論をするが、それも意味がない。この党以外の野党は、共産党を組むべき相手としてみていないし、共産党支持者以外の有権者も、同様に、組むべき相手だとみなしていないのだから。
 少なくとも、その主張の中身は吟味されるべきであるとはいえ、自党による中選挙区への回帰を打ち出した公明党のように、共産党は、独自の選挙制度への意思くらい表明すべきである。そして、それにどう実現できるか、当面、危機感を同じくする政党と、政策協調するくらい打ち出すべきである。
 でないと、この政党、存在さえ有権者に認めてもらえない。そして、それこそ「発展的解消」となり、自民党よりも古いという意味で、由緒あるこの党、ほとんど消えかかっているのだが、完全に日本の政治の世界から消滅してしまうのも時間の問題となるだろう

| 児玉昌己 | - | 11:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選総括−共産党の場合3

 

 客観的にいえば、巨大政党が激突する構図の中では、何より共産党の議席増につながる可能性は限りなく低いという現実を見ていない。一票の価格差の是正は民主主義的には、当然の議論なのである。だが、それが共産党の集票に直ちに繋がるかということは、別の問題だということである。更に問題がある。
 私も定数是正の必要性がずっと頭にあったのだが、最近、現下の制度という限定条件つきで、この必要性については、微妙に考えが変わっている。ひとつはここ20年で、まだ基本的にはまだ格差が残っているとはいえ、議員定数にける地方と都市部の格差是正が進んできたということである。
 しかしそれ以上に重要なことがある。現在、小選挙区制度の下で格差是正が続けられれば、地方が衰退するという危険を感じ始めているからである。
 これまでも、そして現在も、国会議員の総定員を削減したいとする誤った政治の方向性がある。そこからすると、格差是正方法は、これまでなされてきたように、地方の議員定数の削減と、削減した分での大都市部の定員の積み上げということになる。
 すなわち、今のままで、議員定数の是正という美名の下で、地方の定数の削減をやれば、都市部の議員だけが増えるばかりである。その結果は、当然のことながら、地域代表としての彼らの発言が政策として反映され、地方と大都市の格差はますます開いていく。
 この問題である。すなわち、総定数を維持もしくは削減するという条件付での、今の一票の格差の是正では、中央と地方の格差の拡大という、日本の地方を確実に破壊する重要な問題を全く解決できない。
 ちなみに何度も本ブログで書いたように、日本の国会議員の数が多いというのは、全くの謬見であり、俗説にすぎず、なんら根拠がない。欧州の政治を知るものからすると、圧倒的に少ないというべきである。
 下院ではイギリスでは650.ドイツも600ほどいる。人口比で言うと、イギリスの倍の人口を持つ日本では、衆院議員は1300いてよいということになる。しかし、日本では定数を削減せよとだけ言う。しかもそれが私と同業者の政治学者によってである。私も学者の末席にいて恐縮なのだが、常日頃、学者など疑ってかかれと、言っているが、その典型である。
 米国だけを見て、定数を削減すべしとする、視野が狭い政治学者が選挙制度の委員会に顔を出している、これら権力に近い幾人かの在京の政治学者の無知蒙昧さには愕然とする。
 いや、かれらはそれが反民主主義だと熟知しながら、現行制を政治流れに忠実に乗って、無批判に助言したのだ。しかも、その後の定数是正では、比例制の縮小というとんでもない方向が実践されるが、その際も、彼らはなんら抵抗さえしてこなかった。なんという政治的俗物たちであろうか。
 尊敬する猪木正道京大名誉教授も、これらの審議会に発言権を持つ政治的俗物とちがい、老体に鞭打ち、この制度の反民主的性格を当時新聞で書かれていたほどである。猪木氏といえば、防衛大学校校長として、共産党などの「革新」政党は、「敵」としていた学者だったのだが。いわば、共産党など少数政党の議席の擁護者であったのだということを、理解できているのだろうか。
 もともと、議員の定数削減は、行財政改革時に軌を一にして出てきた議論である。だが、国民の代表である政治家と行財政改革の対象となる官僚の数を同一視するレベルの低さは全く問題外である。こんなのが私の同業者にいることを恥じる次第だ。
 確かに志の低い議員や、政治を金銭目的にしている出鱈目な議員がいることは問題だが、国民の意思を汲み、国民のために働いてくれる議員は、必要なことである。メディアにあおられて、「はい、では数を減らします」というのは、まさに政治家がなめれれている証拠である。
 本題に戻ろう。一票の格差の問題点にだけ力点を置き、小選挙区制自体を党が問題にすることなく、それを前提としていれば、百年経ってもこの党は政権を得ることはないであろう。なにより、政権政党を目指さない党にあっては、この党の基礎票が劇的に増える見込みなどないからである。

| 児玉昌己 | - | 10:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
 参院選総括−共産党の場合2

 たとえば、その赤旗の記事は、以下いう。
 「参院の定数は現在二百四十二。このうち比例が九十六、選挙区が百四十六です。選挙区選挙は、すべての都道府県に最低二議席を割り当てています。任期は六年で、三年ごとに半数を改選します。」
 全くそのとおりなのだが、政治学的に厳密な議論をすると、参院の選挙区選挙での解説で表面的には正しいとしかいえない。だが、表面的にであるということが重要で、政治学的にいえば、重要な部分で問題がある。
 「都道府県に最低二議席を割り当てられている」と赤旗が書く選挙区選挙だが、3年ごとの半数改選であるがゆえに、各県に最低2名置かれている議席も、実は29の選挙区で1人区となっているということである。
上記の記事だと、2人区だと誤りかねない。すなわち、合計58議席において、参院においても、実質、小選挙区化しているという重要な事実の把握を損なうことである。
 そしてこの記事は、なにより、選挙制度の概説書みたいである。
 それならそれでいよいのだが、がけっぷちにたったこの党においては、そんな他人事の記事を書いている事態ではない。同党がこの選挙制度で、どう政治的に影響を受けているかを、書くべきではないのだろうか。
 それに問題は別にある。何より共産党がこの記事で最も重要なことと指摘するように、それ自体は極めて正しいのだが、一票の格差を是正しても、現行の小選挙区制の前では、肝心の自党、つまり共産党が議席を確保できるのか、誰も保障してくれない。
 

| 児玉昌己 | - | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
 参院選総括−共産党の場合1

 自民党と公明党は惨敗の総括を行い、それを公表している。では共産党はどうだろうか。
2007年7月29日、日本共産党は比例得票440万票の比例区3人の当選、日本共産党が改選前5議席(内比例4)を3議席に減らした。比例区440万という得票は前回とほぼ同水準。
そのように書くと、国政選挙では、さほど変化はないと思うのだが、実は、日本共産党は、破壊的というべくも弱体化を見せているのである。
2004年7月11日に行われた第20回参議院議員選挙の結果を見れば分かる。共産党は、比例代表選挙では四議席を確保したものの、選挙区選挙では7の現有議席をすべて失い、全体としては改選15議席のうち11議席を失う大敗北を喫している。比例代表選挙での獲得得票は436万票(7・8%)であった。つまり国政選挙のたびに、これ以上は下がらないというまでに議席の減少が続いている。
この状況をどう見ているのだろうか。それを知りたいのである。

党関係者に知人がいないが、インターネットでは若干関係する記事がある。以下がそれだ。2006年12月29日付「しんぶん赤旗」「参院選挙制度 格差是正 待ったなし 一部に改悪の議論も」
 それは参院選挙の半年前の記事である。自民党の、今回落選した片山参院幹事長私案(参院の比例代表制への移行とセットになった衆院の完全小選挙区制移行)に対する危機意識に、一票の格差の拡大を指摘した2006年12月29日の記事である。それはいう。
「選挙制度は議会制民主主義の根幹であり、各党の合意の上で制度論議をすすめる必要があります。党利党略ではなく、民意を正確に反映させるための冷静な議論が求められます。」
この最後のコメントはもっともなことである。しかし、共産党は、度重なる選挙での惨敗による党勢の危機的退潮をまえに、選挙制度問題に関心があるはずだが、インターネットでアップロードされているこの記事を見ると、どうにも他人事みたいで、ことの重要、深刻さについての認識が不足しているように思える。
 この記事、簡単に言うと、1票の格差是正の必要性で、衆院での完全小選挙区制への移行に反対するというものである。その議論自体が間違っているわけではない。そして赤旗は、党の機関紙で、同党の見解の多くを代弁しているといえる。
 しかし、問題は、その新聞の解説では、自民党片山私案の議論の枠の中に乗りかかり、自党の具体的な政策が見られないことにある。
 どう問題なのか、感じたことを少し次回に書こう。

| 児玉昌己 | - | 18:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選挙総括ー公明の場合
 朝日新聞は、「衆院は中選挙区制に戻すべき」 公明・太田代表2007年08月24日
と、以下伝えた。
 公明党の太田代表は24日、衆院の選挙制度について「中選挙区制にすることが非常に大事なことだ」と述べ、中選挙区制を復活させるべきだとの考えを示した。ラジオ番組の中で語った。

 公明党の衝撃は相当のものだ。99年の自公連立のときから中選挙区復活を希望していたが、今回の自民党の協力選挙区での全敗がいかに痛かったかを物語っている。
 政治学的には、現行の選挙制度は、きわめて小選挙区に傾斜した制度であり、参院選挙の制度も同様である。
 有権者の側から見れば、この制度の下では、政党の選択の余地が限りなく、狭くなる。これが、現行の小選挙区比例代表制である。それゆえ、公明が中選挙区制に戻したいのはよく理解できる。中選挙区が、投じられた票が政治に反映できない膨大な死票を緩和、軽減する制度であるというのは、正しい。
 1994年に公選法改正で、現行の制度が導入された。この時期、大メディアや在京の学者などが、選挙で費用がかからなくなるという理由で、はじめから予想されていた膨大な死票に目を瞑り、小選挙区制を導入する支持していた。だが、結果は、中選挙区時代と比較すると、その死票の膨大さには驚くべきものがある。
 政党関係者に聞くと、むしろ40万を1議席とする異様な小選挙区制で、費用は、地盤を分け合っていた中選挙区に比べて、以前にもまして、かかっているというとだ。
 確かに選挙違反は少なくなったが、これは公選法による選挙手続の改正の結果というより、違反への罰則の強化によるものである。
 今回の参院選開票当日、日テレ系のNIBで参院選の解説に入っていたが、実質1議席の小選挙区で戦われていた長崎選挙区では、勝利した民主の候補者が352,953票 (49.0%)、他方敗北した自民の公認候補は、331,147票 (46.0%)で、わずかに2万の差。
共産党の女性候補が別途、35,837票(5%)とっており、勝者の得票よりも、死票となった票が多いという状況である。 
 意地悪く言えば、有権者の半分以上は、選出された代表に投じていないということで、選挙区の意思を半分以下しか反映していないということにもなる。佐賀でも熊本でも、試算していないが状況は同様であろう。
 2大政党の候補者が競れば競るほど、膨大な死票が出ている。しかも、少数政党、少数意見が排除されるというのが、小選挙区制である。そして、ここ10年の衆参の国政選挙で、明確になってきた傾向である。実際、投じられた膨大な票が死票と化し、政治に生かされないのは、有権者の意思を殺ぐものであり、民主主義にとっては、きわめて問題である。メディアも学者も、「改革」を掲げ、実際は「改悪」というべき、民意を正確に反映できない反民主主義的選挙制度の出現に手を貸したということである。

| 児玉昌己 | - | 10:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
参院選総括 何をどう教訓とするか
 人生を生きていく過程で様々な体験をして、人は、よかったこと、悪かったことを教訓として次に活かしていく。そんな知恵を授かっている。
 政治における教訓はについてもそれはいえる。政治の教訓は、有権者の支持の有無という形で現れるが、その教訓を教訓として活かすか殺すか、それは政党次第である。7月の参院選ほど、ドラマテッィクな民意のノーが政治に示されたこともあまりない。
 実際、参院選での自民の惨敗は文字通り惨めな敗北だった。トップが責任を取らないで、その座に居直るというのは、我々日本人の美的感覚からすると、全く美しくない。それだけこの由緒と実績ある政党に終わりが近づいているのかもしれない。それでもその責任を除いた総括は行っている。
 安倍政権などわずかに成立して9ヶ月だから、たいした実績などありはしないのだが、安倍氏が受け継いだ小泉政治の格差拡大政策に国民がノーを突きつけたことだけははっきりしている。自民党の総括が明らかにされその日、日本の所得格差を示すジニ係数が最悪を記録したことは印象的であった。
 参院選挙で否定されたのは、5年5ヶ月にわたる、庶民と地方を置き去りにし、たかだか金融ゴッコしかしらないホリエモンや村上ファンドごときを英雄視し、若者に理想像と煽った小泉政治そのものであったことは、書きとめておく必要がある。
 

| 児玉昌己 | - | 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) |

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