雨の日曜日。長かった3月も終わる。マンションというコンクリートの箱の中で独りでこのブログを書いている。コンクリの中では、歌を詠み、あるいは発句する詩情も湧いてこないことを改めて感じる。
私の周囲では、すでに大学では卒業式も終わり、教え子も各地に新たな生活をスタートさせるべく、飛散していった。4年進級も目の前の3年生も、リクルートスーツに身を包み、東京や大阪、そして地元福岡で、自己の将来を夢見ながら、就職戦線で真剣に動いている。
個人的にもパレスチナ自治区のジェリコを含む中東視察という強烈な経験をした3月であった。この鮮烈な体験は貴重で、大切にしたい。
カジノ資本主義ともいうべき金融取引に異常に傾斜した昨今の安直な拝金主義の時代の中で、この体験を時間をかけて発酵させ、思想形成に役立てたいと思っている。
思想や哲学が、安直な拝金主義の時代にあって、疎んじられ、後景に退いている感じを受ける。軽薄で、拝金主義の安直な時代こそ、確固として揺るがない思想と哲学が求められる。
欧州政治の専門書以外では、今注文しているのは、古田武彦の一群の古代史書。今読んでいるのは清水幾(いく)太郎「日本よ国家たれー核の選択」(文芸春秋1980年)。
若い人の多くがこの社会学者を知らないことだろう。が、むしろいま注目するに値する人だと思う。彼は、江戸期、海防論を唱え、幕府から処罰された林小平と同様に、20世紀後半の国家思想家として、後世に名前を残すのではないかと思っている。
清水はこの書で1960年までのいわゆる左翼文化人としてのその思想的立場に決別し、紛(まご)うことなき核武装を支持するナショナリストとして、その立場を自己規定した。 当時、私も先生は大転換(転向)したと、十分その思想も理解することなく、距離を置いた一人だ。長崎の出身者としては、広島の人と同じく核武装には抵抗を覚えたし、今もそうであるが。
今先生の書を読み返していくと、戦後日本は、自ら国を守る意思を放棄し、米国に依存し、その掌の中で、安易な理想主義を語っていたにすぎないという指摘が、実は私が最近とみに繰り返しこのブログで書いていることと同じであることを確認した次第だ。
理想主義に傾斜した反米左派勢力がインテリの代名詞でもあった今から30年近く前に、それまでのあらゆる人間的、思想的なしがらみを排して、書いた憂国の書であった。
実際、彼の過激なまでの言説に恐れをなし、彼の告別式には、彼にお世話になった有名出版社の関係者は、ほとんど参列しなかったということである。
清水先生は、現代は、遺憾ながら、我々の希望とは違い、まさに倫理も道徳もない戦国時代であるという世界観を持ち、国際政治学の研究書よりも、室町末期からの戦国時代を扱った書のほうがよほど、国際政治の苛烈さを理解できると書いている。
戦前の軍国主義による思想統制の反動として、戦後、日本の大方のインテリが、理想として仰いだ。それがソ連の社会主義である。 その異常きわまる抑圧社会の実際には目を向ける意志も意欲もなく、安直に隣にあるものが、「なにかいいもの」として支持していた、それがソ連の社会主義であった。
そして、それは1989年のベルリンの壁の崩壊を機に、音を立てて崩壊した。氏はそのあり様をみることなく、前年なくなっている。
核武装の当否は当面置くとして、清水は学者としての良心に従い、安易な側に安住することを拒否した学者であった。
思想家の堅固な意思は、喧騒、喧噪と表現すべき、今時のテレビのコメンテイターの、風向きいかんでは、その立場を軽々と変える、その軽薄さ、無責任さとは無縁のものである。