児玉昌己研究室

内外の政治と日常について想うことのあれこれを綴ります。
欧州出張余話 反EU政党リベルタス1

 リベルタスとは、アイルランドの実業家ガンリーが創設した反EU政党である。ラテン語に由来し、解放を意味するリバティーと同義語と考えていい。
 注目されたのは昨年6月のリスボン条約での国民投票のときである。リスボン条約は21世紀のEUの進むべき道を提示した条約案である。
 EUでは条約改正や新条約の制定については、27カ国が批准して初めて成立することになっている。このリスボン条約では27の加盟国のうち、唯一アイルランドだけが国民投票を実施している。後は、議会での批准である。
 ここで質問。あるEUの加盟国にあって、条約改正は、国民投票と議会での批准はどちらが簡単か。その理由は。
 おそらく第1の質問は簡単だろう。第2の質問が難しいかもしれない。
 だが、さほどのことはない。まず第1の質問の解答は、後者、つまり議会での批准である。
その理由は、政府を構成しているのは、議会では通常、多数派を占める与党である。
政府提出の条約案を議会の与党にお願いしたいとすれば、与党はこれを拒否する拒否する理由はない。
 ただし、国民投票となれば、そう簡単ではない。国民投票は問われている課題について、時に全く無関係な要素がその採否に当って、混入してくる。
 例えばリスボン条約では、リスボン条約の中身が問われているのではなく、時の政府与党の政策全般が問われるというように、無関係な事柄が多く影響を受ける。
 EUの将来像を定めたEU改正条約であるリスボン条約において、このアイルランド一国が国民投票を実施し、それが昨年1度否決される深刻な事態に立ち至った。
 2005年の欧州憲法条約に続き、EUの重要な課題に対して、2度目の重要なネガティブが示されたのである。
 その政治的キャンペーンを大々的に展開したのが、このリベルタスである。

| 児玉昌己 | - | 23:23 | comments(0) | - |
WBC対韓決勝戦余滴ー敗軍の将は兵を語らず
韓国ではイチローとの10回表での場面で、なぜ彼を歩かせずに、対決を選んだかということにたいして、監督は若い選手の伝達ミスだったということが監督の口から出て、波紋を広げている。
 自己の采配の意思の不徹底こそがまず責められるべきであるのに、経験のない若い選手の意思伝達のミスと、選手のせいにしている。
 本当に歩かせるなら、監督自らが投手に直接かけよりそう指示するすることもできた。結局、それは国民の意思に反するであろうことであり、そうできない雰囲気があり、それゆえに監督としての指揮をあえて積極的に行なわかったというべきであろう。
 日本では、古来から、敗軍の将は兵を語らずの、史記の例えがある。実に醜悪に思える。
 インターネットでは、 韓国のブログ「スポーツと生の話」でブロガーのコメントを、以下、紹介している。このコメントが全く的を射たものだと私は理解している。
 イム・チャンヨン投手(ヤクルト)について「韓国を相手に何回か微妙な発言をしたイチローが再び打席にある状況でイム・チャンヨンは正面勝負をした。結局それが通恨の2打点タイムリーヒットになってしまった。
 もしもイム・チャンヨンが相手バッターを『韓国野球の公共の敵イチロー』ではなく『5打数3安打を記録し、世界的な1番打者』という考えで勝負していたらどうだっただろうか。(以下略)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0325&f=national_0325_006.shtml
 結局、先のWBCで、彼らが言う「日帝支配」に偶然期間が近かった30年発言をしたイチローに対して、異常なる敵愾心を掻き立てており、それがこの「公共の敵」との勝負の背景にあったというべきであろう。そう理解するのが自然である。
 実際、イチローとの真っ向勝負で、もし彼を三振にでも打ちとっていたらどうだろう。国家の英雄として、歓喜の祝福で、この選手は讃えられていたことだろう。
 我々からすると、韓国の異様ともいうべき反日メンタリティがなさしめた真っ向勝負であり、そして敗北であった。理性的判断が非合理的な感情に押し切られた結果としての敗北、そのように私は見ている。
 いずれにせよ、史記にある「敗軍之将、不可以言勇」(敗軍の将は、勇(兵)を語らず)という故事を韓国の関係者に贈りたい。
 長く日本同様、漢字文化圏としてありながら、韓国国民は、このわずか30年で、自己の家系が漢字表記された族譜に由来していることも忘れて、名前さえ漢字で書けなくなってしまっている。 
 それと同じように、この世界的に有名な史記の言葉と精神さえも、まさか失念してしまったのではないか。そうではあるまいに。 
| 児玉昌己 | - | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧州出張から戻れば、春本番
 今日は、欧州出張前から治療を受けていた歯が痛み、治療のため大学院の行事の欠席を余儀なくされた。
 欧州出張中も痛めている歯を気にしながらの10日間だった。一時腫れてしまい、帰国まで持つのかと案じた。こんなことも中年世代なればのことだ。在外研究や海外出張は体調との比較考量の上でということになる。
 帰国すると、WBC一色だったが、同時に春が訪れていた。春の選抜はすでに始まっていた。日は長くなり、山々は、満開の桜で満たされている。
 大学では一昨日が卒業式だった。すでに多くの大学が終えているのかもしれない。
企業の中にはすでに入社式も執り行われいているところある。そうしたところには、自宅宛に卒業証書を郵送することになる。
 大学教員の仕事は、卒業祝賀会で学生さんと記念写真に納まることも重要なことである。教える側の我々にとっては、卒業式は年年歳歳のことだが、1人1人の学生さんにとっては一生に一度のこと。入試も、入学式もそうである。
 学生諸君を送り出すと、入試も終わっており、すでに発表した合格者のうち、何名入学してくれるのか、それが大学関係者の最大の関心事となる。
大学は、少子化現象を受けて、今は名だたる構造不況業種なのである。
| 児玉昌己 | - | 03:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧州出張でのこと グラスゴーとセルテック

2日前にはWBCのことを書いた。おかげで多数のアクセスを得た。スポーツの読者は政治や欧州記事の読者よりもはるかに多い。したがって記事アクセスも増える。実際、WBCの激闘は2日経っても余韻がまだ強くある。それほどの名勝負だった。
 ここではWBC
での対韓最終決戦を書いたついでに、欧州出張のついでにみたスポーツのことを書こう。学問的なことはもとより大事だが、それは私の専門である。ここでは、ブログのファン向けにサッカーのことなど書こう。
 欧州での出張先の最後はグラスゴーであった。
 当地では同志社の力久教授の案内を受けたが、スコットランドでの在外研究を終えられ、次の研究地のアイルランドに移られるという最後の段階にあった。
 その地では、最終日、セルテックの球場を見てきた。不覚にもセルテックがケルトの派生語であることを失念していた。息子に中村俊輔が活躍しているといわれて、グラスゴーが別の意味で新鮮に見えた。
 私などは、産業革命を推進した蒸気機関の生みの親、ジェームズ・ワットの地だというように、世代間で随分認識が違うのである。ちなみにワットは、立派な市役所の広い前庭に、威風堂々とその銅像が飾られている。
 力久先生にセルテックの話をすると、球場に行きましょうということで、車で連れて行っていただいた。
 グラスゴーにはファンの方にはいわずもがなのことだろうが、グラスゴー・レンジャーズがあり、両雄拮抗しているということだ。
 セルテックは緑と白のチームカラーが示すように、アイルランドとの関係が強く、スコットランド内では少数派のカトリックの教徒の支持を強く持っているということだった。当然応援が過熱すればファン同士の衝突もあるということだ。
 なるほどと、現地ではナカと呼ばれている俊輔がつけているチームのユニフォームに納得した次第だ。サッカーを通した文化史を勉強させてもらったことだった。
 せっかくだからと、セルテックの球場に併設されている専門グッズの売店を冷やかす。 早い時間でまだ開いていないかと思いきや、開店早々で、広い店内にはアレコレのグッズが置かれていた。
 面白かったのが、トースターである。もとよりパンを焼く器具だが、焼き上がりが、セルテックと白く浮き出るようになっている。実に発想が面白いので、写真に収めてきた。頭髪を上手にカットして、チームやファンの名前を書く、あのようなものだ。
 当地の子供たちもかくのごとくして、スポーツの楽しさや愛郷心を養うのである。

 

 

 

| 児玉昌己 | - | 12:00 | comments(0) | - |
神が降りてきた日-WBC決勝戦 侍よ有難う
 神が降りてきた日とは、決勝で激闘10回を終え、自らのバットで勝利を手にした後のイチローの言葉だ。
 時に優れたスポーツ選手は詩的な言葉を吐く。
 WBCの対韓戦は決勝戦というだけあって、凄まじい試合だった。ただし韓国のリードを許さなかったということでは、終始日本優位の試合であった。延長になっての、10回表のイチローによるあの2点タイムリーは、まさに千両役者そのものだった。
 決勝戦に関していえば、苦しむダルに2点を献上したこのイチローを語らずにありえない。だが、同時に、MVPに輝いた松坂大輔が実は彼がもらうべきだったと称えた岩隈久志の好投と、内川聖一を挙げるべきだろう。
 特に、横浜野手で今回侍ジャパンの主砲としての役割を十分果たしながらも、負傷帰国した村田の後輩である内川のあのガッツと実績は、このゲームで突出していた。守備も素晴らしかった。あのファインプレーがなければ、試合はひっくり返されていたかもしれない、そのような強烈なヒット性のあたりを神がかりに捕球し、走者を刺した。
 終わってのシャンペンかけのテレビ映像を見ながら、私も涙した。
 全力で戦い、世界最高の地位を文句なしに得た侍達よ、本当にお疲れ様でした。そして有難うございました。
 
 
| 児玉昌己 | - | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブリュッセルミディからスコットランドへ EU遥かなり
 10時過ぎ。テレビではWBC決勝での対韓最終決戦をライブで報じてはじめている。
昨夜帰着するや早々に旅装を解き、荷を解き、洗濯して、風呂で汗を流して、就寝。欧州同様素晴らしい晴天が広がっている。
 ブルージュ以降のことを書けば、ライアンエアーに触れるべきだろう。この欧州の市民が多数利用している便利で格安のフライトについて。日本人関係では、インターネットではこのフライト利用はあまり触れられていない。だが実に簡便だ。
 ブリュッセルミディ(南駅)からは、ホームを背にして左側の出口を出たところにライアンエアとおおきく車体に書かれたバスが待っている。朝は未明の4時過ぎから頻繁に出ていて、そのスケジュールもネットでとれる。
 シャルルロワは、バスで1時間弱。鉄道でも行けるが、最後は空港までのバス乗り換えとなる。それゆえミディからは空港の玄関に乗り付ける直行バスがお勧めだ。
 シャルルロアの空港はライアンエアーの利用者がほとんどで、短距離とはいえ国際線のチェックは通常通りだ。荷物は厳格に形状重さともにチェックされる。
 空港売店はかなり高め。それでも、HISも扱っていないし、通常では私のこのスケジュールなら、隣国のスキポールか、ヒースローに飛んで、その後、時間待ちして、グラスゴーに入るルートで、しかも価格は10倍以上を請求される。そのことを考えると断然お得である。
 シャルルロアから、1時間半で、グラスゴー。時差の関係では表向き、35分ということだ。グラスゴーもかつての軍用の、これも地方空港のプレストビック。
 こちらもグラスゴーの市街地まで1時間の距離にある。ただし、空港接続の鉄道で移動だが、簡便。鉄道は、ライアンエアーの予約関係Eメイル資料の提示で半額の特典を得ることができる。それで4ポンド以下。
 ただしフライト・ティケットの半券では受け付けてくれないので、要注意。せっかく利用する特典だけに予約関係のコピーを持っていくことが大事だ。私は取り出しやすいようにクリアファイルにホテルや航空アクセスなどあらゆる情報を事前にコピーして、持参していた。
 どこを見るか、何をするかは、各人がその目的を持っているだろうから、ここでは皆さんの参考のために、移動手段等について書いておきたい。こちらは誰にでも必要なことだから。
スコットランドの中心都市グラスゴーは私にとっては処女地。大陸からイギリスへの入国は、とりわけ厳格に感じられる。2年前に起きたロンドンでのバス爆破テロなども記憶に新しい。
 実にコンパクトな街で、市街地のホテルまでわずかに8百円程度で移動できた。特に国際的な大都市のパリやブリュッセルを経てきたものからすると、福岡よりも小さく、長崎程度の印象を受ける。
 もっとも力久先生とでかけたエジンバラはさすがに王城の都。堂々たる街。好天でダブルデッカーでの名所遊覧を楽しんだ。
 私には一つだけどうしても解決しておきたい関心があった。それはスコットランド紙幣のことだ。
 発券銀行がイングランドとは別にあるという素朴な記事に30年前から不思議に思っていたのだ。

 この地でわかったのは、なんと発券銀行は1つではなく3つもあるということ。さらにで、紙券が同一額面で3つあるという驚愕すべき事実だった。わずかに地域人口500万というのにである。スコットランドさえこうである。
 イギリスのユーロ導入はまだまだだという気がした。
 そういえば、スコットランドでは、欧州大陸のあらゆる都市と違い、EUの旗がさっぱり見られなかった。翻っていたのは、この都市の守護神聖アンドリューズをシンボル化した白地に青のクロスのスコットランド旗であった。

 EU遥かなり、である。  
| 児玉昌己 | - | 10:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧州の旅から帰る だが、まずWBC準決勝対米戦のこと
 欧州のその後のを書こうと思ったが、やはりWBCだろう。
 私の世代はサッカーか野球のどちらかを選べと言われれば、サッカーファンには申し訳ないが野球を選ぶだろう。
 とはいえ、グラスゴーでは、研究旅行の息抜きために、週末、セルテックの本場のグランドに力久先生に連れて行ってもらい、あれこれのグッズを買ってはいたのだ。
 実際、グラスゴーに行くというと、セルテックがあると、息子がことなげに言い放ったのだった。あのジャパンが生んだヒーロー俊介の、である。あ、そうだったのかということだった。
 WBCにもどれば、ロンドンのヒースローからの長き帰路のフライトがまさに始まったその時にWBC準決勝対米戦が始まっていたのだ。
 もっとも、機内のこと、ソウルインチョン空港ではまだWBCの対米戦の結果を知らなかった。
 空港の待合でそれを聞いたのだ。それも、本学の同僚の若手教員の上村先生からだ。
 ドイツはミュンスターでの研究をおえ、フランフルトからインチョン入りして、福岡行きのラウンジで私が来るだろうことを想像していたといわれる。私のブログを見ておられたのだ。
 勝ちましたよというその一言で、目の前の空港ロビーのWBCのハイライトの映像がすっかり意味をなくしてしまった。何かへなへな、というごとく。
 ブルージュを出た後、格安航空会社のライアンエアーを利用したグラスゴー行に備えてブリュッセルミディのホテル・イビスに移動したものの、インターネットは無線で有料という。旅も後半でもういいやという気分。
 グラスゴーでも同様の状況だった。キューバ戦や、対韓戦や、韓国のベネズエラとの準決勝戦については、同志社の力久教授から聞くというもどかしいものだった。
 そして、ソウルまで戻ってきて対米戦の結果を聞いた次第だった。その後も情報から疎外された。成田での史上初の死者が出た航空機災害が発生し、日本の新聞がソウル搬入ができず、通常、たくさんの日本の旅行者のために多数配置される邦字紙が機内には一部たりとも入っていないという、ネガティブなおまけまでついていたのだ。
 ともあれ、このWBC、対韓戦でいえば、最大6戦がありうると聞いていたが、想定の上だけのことだと思っていた。だが、なんと5戦を戦うことになって、驚き。
 ともあれ、時差ぼけなどいっておれない早朝のテレビ観戦となるのだろう。
 対米戦に歴史的な圧勝でようやく決勝にたどりつき、しかも、決勝戦にぎりぎりで間に合った。明日こそ、日本も韓国も全土をあげて応援する日韓最大のイベントとなることだろう。
 ともあれ、長い旅が終わり、今、充実した旅の荷を解き、風呂にでも入ろうかと思っている。
| 児玉昌己 | - | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブルージュの欧州大学院大学に顔を出す
今日もパリ同様に抜けるような青空が広がるこのブルージュだ。パリは2日後にゼネストになり、すべてが止まるとアンドレがいっていた。好天とともに、短期間で3カ国を回る研究者としては、実に幸いだ。
 ブルージュの欧州大学院大学訪問を終えて、戻ってきたところ。校舎の前で写真をお願いすると、カレッジの学生だという。ポーランドから来て、学んでいるいう。
 25年前の卒業生だというと、目を丸くしていた。中では韓国人留学生がいた。
 国際関係研究科長のマンケ教授は不在だったが、政治学博士で、リヒテンシュタイン出身のグストール女史が新校舎を案内してくれて、プログラムの説明を受けた。
 数百年前の古いブルージュの建物と、実巧みに新たしい校舎を調和させて、見事であった。相変わらず日本人の入学者が少ないのだが、頑張ってほしいものだ。
  3年半前のブルージュでの在外研究でお世話になった同大学院の研究開発部のスタッフのピーターやヘソス(イエスのスペイン名)など、数名も在籍していて、なつかいしい再会だった。
 ブルージュは私にとっていつの時代の温かく迎えてくれる得難い学術の故郷だ。
 これからブリュッセルに移動し、夜の7時半には、カレッジ開発部で親しくしたイタリア人のアメリオと、おなじく、ブリュッセルで在外研究中の山口大学経済学部准教授の豊先生と会食することにしている。
 朝日新聞ブリュッセル支局長の井田さんと会えたらいいが、欧州理事会の取材で超多忙のようだ。
 ともあれ、今回の行程の4分の3が終わった。明日は早朝に起きて、シャルルロワ空港からイギリス、グラスゴーに11時に移動。最後の行程になる。
 年も重ね、経験も積んだこともあり、さらにはインターネット環境も充実しているので、オタオタする必要もなくなっている。
 天気も恵まれ、無駄のない旅で、久しぶりの欧州でリフレッシュしている。
 それにしてもWBC韓国戦ではなんとかしてほしいものだ。ネットで結果だけをフローしているのだが

 
| 児玉昌己 | - | 18:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブルージュの母校欧州大学院大学を訪問する
昨日パリを後にし、北駅、ギャルドュノールから、国際鉄道のタリスでブリュッセル入り。国が変わるというのに、僅か1時間10分の旅である。実に便利なものである。ブリュッセルミディからブルージュまではインターシティの快速電車で1時間。15.9ユーロ。
 在外研究でお世話になったジャックのBBに泊めてもらっている。
 今日も、パリ同様抜けるような青空が広がるこの地だ。パリは2日後にゼネストになり、すべてが止まると言っていた。好天とともに、旅行者としては、実に幸いだ。
 ブルージュの欧州大学院大学訪問を終えて、戻ってきたところ。
 校舎の前で写真をお願いすると、カレッジの学生だという。ポーランドから来て、学んでいるという。25年前の卒業生だというと、目を丸くしていた。中では韓国人留学生がいた。
 国際関係研究科長のマンケ教授は不在だったが、リヒテンシュタイン出身のグストール女史が新校舎を案内してくれて、プログラムの説明を受けた。3年半前のブルージュでの在外研究でお世話になった開発部のスタッフの数名も在籍していて、なつかいしい再会だった。
 ブルージュは私にとっていつの時代の温かく迎えてくれる得難い学術の故郷だ。
 今年秋に始まる新学年では日本から3人がアプライしているということだ。合格し、大いに勉強して、日本のEU研究を高めてほしいものである。
| 児玉昌己 | - | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
パリ最終日 パリ政治学院でグロセール教授のことを聞く
日本はすでに未明の3時という時間だが、こちらは夕刻。
宿泊先ホテル、パドカレからすぐのヤコブ通りにあるパリ政治学院に出かけてきた。
ディレクターという重職についているルケンヌ教授のオフィスで、忙しいスケジュールを縫って時間をあけてくれ、あれこれ聞く。
 興味深かったことは、彼がアルフレート・グロセールAlfred Grosserの弟子だったことである。長い付き合いで、今回初めて知った。
 グロセール教授は、1925年フランクフルトで生まれで、御歳84歳。まだ存命中だとは知らなかった。日本でもファンが多く、「欧米同盟の歴史」上、下、法律文化社1989年や、「ドイツ総決算」社会思想社1985年が翻訳されている。
 フォンテブローのシャトーに、未だ矍鑠(かくしゃく)とされているこの恩師を招いて、講演していただいたということだ。
 200名もの参加者があり、教授自身の長男のマシュウ君など、多く明日を担う子供たちも参加したという。
 欧州統合の将来の継承の問題に触れたとき、ルケンヌ教授が、その話題を語ったのだ。 戦後もすでに過去のものとなり、新しい世代平和をどう考え、受け継いでもらうかということは、戦争を知らない世代が政治家を含め、人口の大半となっている欧州のみならず、日本人の自身の問題でもある。実に興味深い話であった。
 明日は午前中にホテルを出て、国際列車タリスで北駅からブリュッセルを経由して、私の第3の故郷ともいうべきブルージュに向かう。
 今夜は、最終日ということで、欧州大学院大学の同級生で、銀行家のアンドレが一席持ってくれることになっている。 ホテルに電話があり、フロントがメッセージをくれた。レストラン、マルロットRESTAURANT LA MARLOTTE で、これから出向く。
 この春の最後のパリのイベントである。
 今回もまた十分に意味のあるパリとなった。若い時代にともに学んだ仲間がいてくれて、欧州は私の身近にある。 実にありがたいことである。
 なお、パリについては、「最新パリ事情」長崎新聞2002年10月4日として、長崎新聞に掲載したものがある。併せてお読みいただければ幸いである。
http://www1.cncm.ne.jp/~kodama/frame.html という私のホームページのpublicationsなかにあり、クリックすれば、取り出せる。
20021004_nagasaki sinbun recent Paris.pdf
| 児玉昌己 | - | 03:11 | comments(0) | trackbacks(0) |

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