児玉昌己研究室

内外の政治と日常について想うことのあれこれを綴ります。
日曜日、庭の樹木の名を知る

 今日は終日、勉強。ヨーロッパ統合に関するテキストの執筆を依頼されている。締切は9月末だが、別途、先輩教授の古希記念論集もある。6月も放送大学も含め、アレコレ、週末なども予定が入っていて、気分的には慌てている。実に、忙しい。
 昨夜は大分大学からスティーブン・デイ准教授が久留米来訪。イギリス人のデイ先生は、EU政治研究者で、先のイギリス総選挙なども含め、頻繁に情報交換をさせてもらっている、私の師でもある。
 夫妻と一緒にオーナーが釣った魚を料理してくれるというイタリア風レストラン「一魚一会」で夕食。デイ先生も魚がいいというし、私も肉も悪くないが、魚がありがたい。
 ここは、初めてだったが、味もいいし、お皿も、オーナーシェフのセンスの良さをみる。
 最近久留米に得たわが家を夫妻にみてもらう目的もあった。夫人からはブーケをいただいた。
 

 そんな心理状況の中でも、嬉しかったことがある。我が家の庭の木のことだ。
 自分が植えたものなら知らないものはないのだが、前の持ち主が植えたもの。それで名前が分かっているのもあるし、そうでないものもある。EUのことは、多少分かっても、庭の樹木となると、素人で、さっぱりだ。  
 まして、身近にあるのに名前が分からないのは、職業柄面白くない。
 ちょうど、業者さんが手入れの見積もりにきたので、我が家の木の解説を受ける。

 それによると、南天、紅梅、黒松、さるすべり、金木犀、モチの木、サザンカ、山法師、サンショ、柿木、桃、梅もどき、ハナミズキ、ヒバの木、そして私が植えたアゼリア・オランダつつじ。
 生垣は羅漢槇ということで、すべて分かった。有り難いし、嬉しい。人から尋ねられても、話せるではないか。
 それにしてもこの時期の雑草。頭が痛い。

 

 

| 児玉昌己 | - | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
政治不信も極まれり 「最低」さえ守れない「最低以下」の鳩山首相の続投表明 下
  だが、この総理の場合は、珍しい。右から左まで、憤りを買っている。思想信条によるものではない。それならまだいい。だがそんなレベルでなくそれ以前の問題で。すなわち、放つ言葉に重みがまるで感じられないからである。
 「ハトでなくサギだ」と沖縄の婦人が書いている写真が掲示されていた。
 そうだろう。マニフェストは公約ではなかったのかね。この人の前ですべてが、融通無碍だ。言葉などどうでもいいと思っているのだろう。政治家の最大の資質は言葉に忠実であることだ。
 命を賭して、内外の困難に立ち向かった幕末維新期から145年余。竜馬ほか、維新の志士たちは、こんな政治を生むとは思いもしなかったことだろう。 
 そういえば、この首相、続投表明で、またしても「生命を賭して」としてという。 まあなんと安げな言葉だろう。あらゆる言葉が、安げだ。
 前任者は漢字が苦手で、つまるところ、国語力に問題があった。だが、今度は論語読みの論語知らずだ。 後者が始末が悪い。知らないことは恥でない。前者は学べばいいだけだ。 だが後者は深刻だ。
 言葉は学校で習ったのだろうが、庶民とは異なり、この人は、言葉の重みを、身体で、すなわち血と汗と涙と、そして悔しさで、実社会から学んだことがないからだろう。
 人が生涯受け取ることもない。総額12億もの巨額な資金を、黙っていても、親から月々得るような環境にいたのだから。 想像を絶するほどに、別世界の人だ。
 大人社会では、違約は損害倍請求の対象である。実際、そうした基本的な約束事で成り立つ大人社会において、大人として社会で約束したことに対して、なんらの責任もとることがなく、あまつさえ続投するのが務めだというまで開き直る指導者をみて、政治家全般にたいし、彼らが発する言葉をまともに受け取らなくなることが怖い。
 政治不信は極まれりというのが、今日のタイトルだが、実際そうなりつつある。
 ただでさえ、政治家無能論から政治家不要論を政治家自身が唱える時代である。
 政治家無能論の先には国会リストラ論だ。衆参両院は国権の最高機関であり、国会議員は、国民の代表であるにもかかわらず。
 内閣支持率が一桁になっても、まだこの総理は、こんなことを言っているのだろうか。
 更に驚くのは、国民の怨嗟の声に包まれながらも、選挙を前に、内部で政権刷新運動さえ見えない、この党の議員諸君の態度である。わずかに1年生と長老の2名が発言しているだけだ。実際、参院選挙は目前だ。
 潮目が完全に変わったということも理解できていない。昨年9月の選挙での余韻にまだ浸っているのだろう。選挙で同僚議員が軒並み落選し、大敗しないと理解できないのだろうか。だとすれば、自業自得といえるが、同時にそれは、不幸なことでもある。
 なにより、民主の積極的勝利ではおよそなく、自民の自壊と、他に選びようがない小選挙区制度にも助けられたというのが先の総選挙だったことが、まるで分かっていないのだろう。
 懇意にさせていただいている数学者の先輩は、現内閣について、しばらく前に「賞味期限切れどころか腐臭さえする」と語った。腐臭の後はなんだろう。想うだけでも不愉快だ。
 あれだけ大言壮語をした挙句、高い支持率で始めた後、わずか8カ月でその支持を食いつぶし、自民と政府外務省がそれなりに努力し、まとめた案に逆戻りした。
 テレビでみる国民の反応は、東京でも福岡でも、通常の庶民の慎ましさとは異なり、怒りを超えて、憤激一色だった。それは皆さんも、それぞれの地域で目にされたことだろう。

| 児玉昌己 | - | 11:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
政治不信も極まれり 「最低」さえ守れない「最低以下」の鳩山首相の続投表明 中
  カネにまるで苦労のない特殊な環境で過ごし、言った言葉に対する責任を問われるという局面で育ったことがないのだろう。頭を下げれば、済むとのみ育ってきたのだろうか。
 福島社民党党首への対応をみればそう思う。 罷免しながら謝罪する。どういうことか。
 罷免は、自己が任命した閣僚にたいし、その個別的意見が閣内不一致を招き、今後の政務の遂行に多大な支障をきたす。そうした非があるとするから、罷免するわけである。
 罷免は閣僚の意思による辞任ではない。戦後60有余年の議会政治で、わずかに5名しかいない例外的ケースだ。謝罪するなら罷免などできないはずだ。
 まるで常識はずれである。友達クラブの感覚だ。友達クラブの感覚で政治をやっているとすれば、実に由々しきことだ。
 もとより、自民党脱党派で上級幹部のほとんどが構成される民主である。そして安全保障観や防衛政策が相当異なる社民を入れての連立政権である。
 社民の入閣時には、この事態も十分考えられていたことではあるが。それが連立与党にとって、最悪の形で実現したということだ。
 世襲貴族的政治家については、それ自体が悪いわけではない。生まれおちる赤子に、父母を選べないように、生まれ落ちる環境は変えられない。
 立派な人もいると思っているが、この人の思想と行動を観る限り、世襲政治家の環境は政治家としての行動様式において、重要な部面で、ネガティブに作用するのではないかという思いに傾く。
 政治家に必須の庶民感覚を彼らには期待できないのではないかということである。
 この首相にも、そしてそれを掲げる党に対しても、右も左も、国民の皆が唖然とし、政治家全般への不信感を強めている。
 イデオロギーのために、左派に、あるいは右派に攻撃されることは政治家だからよくあることだ。
 いやそれこそが政治家の勲章でさえある。
 政治家とは自己の信じる、達成されるべき価値としての政治思想、つまりイデオロギーがあるから政治家なのである。ファミリービジネスとしての利権ブローカーではないのである。
 
| 児玉昌己 | - | 11:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
政治不信も極まれり 「最低」さえ守れない「最低以下」の鳩山首相の続投表明 上
 鳩山首相自身の言葉を借りて、この首相と政権を評価するとすれば「最低以下」の「愚かな」首相の政権となるだろう。
 他でもない。首相が自ら語った言葉をまとめれば、この標題だ。私が積極的に成したタイトルではない。否、自国の政治指導者をこのように表題することほど、苦く、辛く、面白くないことはない。
 だがである。基地問題に関して「最低でも県外」と語ったのはこの総理だ。つまり最低さえ確保できない最低以下の最低な首相ということになる。
  驚くべきは、この期に及んで、この首相が続投を考えていることだ。
 この総理の感性は飛びぬけて他人と違うようだ。もっとも、米国の有力紙ワシントンポストに、安保国際会議でオバマ政権高官が発した言葉として、loopyとあえて表記させる程だから、世界的に有名かもしれない。
 世界の指導者が読んでいる新聞に、オックスフォード英英辞典では同義語、crazyとある語で表記されるなど、実際、国の恥というべきものである。
 正確を期すためにその部分を記せば、以下になる。

By far the biggest loser of the extravaganza was the hapless and
(in the opinion of some Obama administration officials)
increasingly loopy Japanese Prime Minister Yukio Hatoyama.
Article | 04/14/2010 At the summit, there are leaders and there are leaders

  

 


| 児玉昌己 | - | 09:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
心も和む庭の薔薇
 メアリーローズ、グラハム・トーマスご存じだろうか。薔薇の種だ。
 庭に咲いている。この季節、庭には何が咲くのかというほどに、花を咲かせている。野草から、観賞用のものまで。
 政治学者として大学で講義する一方、欧州や日本や朝鮮半島の動きのウオッチに忙しくしている。 
 つかの間の休息は庭にでて、花と触れ合うこと。 心も和む瞬間だ。
 さて今夕は、伏見に次ぐ酒どころ、久留米の利き酒会。統治の、おっと違った当地の同志社校友会の会員で酒造に関係する友人に誘われている。地域と酒蔵の皆さんの年に1度の交流会だ。
 これから出て、すこし日本の味に親しもう。
 
| 児玉昌己 | - | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
議員歳費と議席の削減論について 5 これは「仕分け」の対象如き問題ではない

  完全小選挙区制度は、すでにイギリスの総選挙でみたように、本家において時代錯誤的制度として、否定されつつある。
 米国は完全に、それを封じ込めて、封建遺制の闇の中で眠っている。
 イギリスは1999年には欧州議会選挙でそれまでの小選挙区制を捨てて、比例に転換した。そして国内議会選挙でも、英自民の入閣に見らるように、それから脱却しようと苦悶しているそのときに、逆の動きとはあきれる。

 日本の政治家は、10年間で31259600万受け取りつつ、政党助成金でいったい何を勉強して来たのかということである。
 議員は国民の代表であり、試験で選ばれるだけの官僚とはその意味において全く異なる。
議員の歳費問題も、多面的な観点に立って検討される必要がある。
 単に下げればいいというのではない。それは迎合にも通じる。
 ワイマールの民主的政治の後にナチスとヒトラーの台頭を許したドイツの政治の格言に以下の言葉がある。
 政治を軽蔑する者は、軽蔑に値する政治しか持てない、と。
 定数削減論の背景には政治家無能論がある。無能論から無用論はまさに、上記のワイマールの二の舞に成りかねない。国会議員は国民の代表である。
 歳費の削減をとってみても、逆に所得の低い候補者の政治進出を阻害し、あるいは締め出し、政治資金では自己資金を腐るほどももっている世襲貴族的政治家の跋扈を許す危険さえ内包しているのだから。
メディアの諸君よ。
 全国ネットのキー局が、もし議員歳費や議員定数削減を第3セクターの改廃や冗費の削減を目的とした「仕分け」程度の対象であると認識しているとすれば、国は危うい。

 真に仕分けの対象となるべきは議員歳費問題ではなく、それ以上に重要なものがある。政府与党が参院選での選挙公約として掲げている議員の、比例定数削減と、2大政党にとっての最大の「既得権益」となっている小選挙区制度そのものである。

 政治家の諸君よ。
 現代の代議制民主主義国家にあっては、どのような政治も、すべからく選挙制度の上に構築される。選挙制度は、さほどの重要性のあることを自覚せよということだ。
 民主の諸君よ、
 諸君の多くが無自覚的に推進強化に手を貸している小選挙区制度だが、それはイギリスで否定されつつあること、そして、それが生む膨大な死票の矢は、前回の総選挙では多数の自民候補に突きささっだが、次にはあなた方に向かうということも自覚しておくべきだ。

| 児玉昌己 | - | 08:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
議員歳費と議席の削減論について 4 先進11カ国の人口比別国会議員定数
 先進11カ国の人口比別の国会議員定数を並べて見た。
 言われている常識が如何に誤っているか理解されるところであろう。むしろ如何に日本の議員定数が少ないかが、以下で理解されることであろう。
 4カ国で前回とは、定数の若干の出入りを見ているが、基本的なトレンドは変わらない。以下最新のデータを掲示する。

 日本の議員が多すぎるなど、全く根拠がない。多くが基準としている米国自体が、世界の先進国からみて、異常異様に議員定数が少ないことが理解できるであろう。
百万人が抱える国会議員数 先進11カ国比較 2010年現在の議席数
        (人)  人口(万)議席実数 上院  下院
スウェーデン  37.77     924    349        349
イギリス    22.49    6156     1385  735     650     
イタリア    15.91    5987    953     323     630
フランス    13.63     6587     898     321     577
オランダ     13.56 
     1659         225     75      150  
カナダ       12.30        3357       413     105   308  
オーストラリア  10.61       2129      226      76    150
ドイツ     8.22       8175     672      69    603
日本      5.86       12300     722     242    480
ロシア     4.42      14190     628     178    450
米国       1.70      31465     535    100     435
   児玉昌己(久留米大学) 各国版ウイキペディア等の政治データをもとに算出 
 議席実数は上下両院の計 


 人口100万人で、2人も議員を確保できていない米国の異様というべきこの議員定数の少なさについて、権威主義的寡頭政治の米国と定義している。米下院は人口が3倍余になっても、80年余り定数を変えていない。
 米国では、参加民主主義がいわれながら、最も重要な点で、米国の有権者は如何に国政から疎外され、市民の国政への参加も阻害されているかを示している。リンカーンの政治も、今となってはレジェンド、神話である。
 同じく財政赤字を抱える欧州では議員定数削減論など存在しない。議員定数がもつ代表民主主義の意義を熟知し、理解しているからである。他方日本では、まともな比較政治の知識もなく、政治家が自らの職に誇りも矜持もないかのように定数削減を言う。
 無批判に誤った知識を、知った風に垂れ流すメディアも含め、将来の政治家の芽さえ摘みかねない日本の議論のレベルの低さには、あきれ返る。 
 行財政改革論、つまりカネの議論延長で、国会議員の数の削減を図る意図は何か、選挙区での定員削減が困難なことは明白で、結局、反対が少ない比例が削減の対象となることは、火を見るより明らかだ。
 その先には、膨大な死票を前提とする前近代的な小選挙区制度がある。

付記

英文版を付記します

2014.06.02 Monday Comparative levels of the number of Deputies per million of population

http://masami-kodama.jugem.jp/?eid=3676

 

| 児玉昌己 | - | 09:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
議員歳費と議席の削減論について 3 先進11カ国の人口比別国会議員定数 

 議員定数削減は比例の削減ということになり、完全小選挙区制度に接近する。これは公明、共産、社民、日本新党をはじめとし、渡辺新党、舛添新党など、多数生まれつつある小政党など、軒並み消滅させる。非自民非民主の非2大政党の得票率は、35%以上もある。これを根絶やしにする。
 民主の得票率は高々47%程度だが、今の制度でさえ議席は73%を超えている。比例に直せば、たかだか230前後の議席でしかない。実に膨大な死票の上に成り立つのが1994年の選挙制度改正以降に成立した政権である。
 小党は基本的には党首の個人的魅力で集票するわけであり、小選挙区ではまず勝てない。
 余談だが、舛添議員をはじめ新党は、比例に期待するという。であるなら、比例制への選挙制度の抜本改正と転換を、選挙公約に掲げて戦えばいいのだ。
 民主も次回の総選挙では、今の支持率で行くと昨年夏の自民と同様、大惨敗となり、膨大な死票の矢で累々たる屍を選挙戦で晒すことになる。
 もとより、80余名の小泉チルドレンが霧散したように、小沢チルドレン140余はあっというまに消滅することになるだろう。
 得票と獲得議席の異常な乖離、これが小沢民主が強化する小選挙制度の本質である。
 これでは政治は安定しない。政治家諸君よ、少しは欧州の政治の実際を見て、頭を使えということだ。そうでないと、国民が浮かばれない。
 財政赤字の削減、円と株の市場の安定化、地球温暖化、北朝鮮への対応、口蹄疫対策、医療制度等々、とられるべき政策の緊急性を前に、選択すべき政策オプションや相違などほとんどないのに、この混乱ぶりだ。
 小沢、鳩山、岡田氏等々、民主の幹部は多く自民出身者だ。脱党者ともいえる。鳩山氏に至っては祖父が自民党の創設者だ。
 ここ15年の政界再編は自民党内部にその源泉を持ち、そので昂進させた私怨、私闘の延長等側面が強い。
 保守イデオロギーの内部のバリエーションで、急進的に変化させるか、あるいは漸進的かの相違程度のものである。雨後の筍のような新党も旧自民党出身者が中心である。政策に、基本的な相違はない。私怨の延長の類でやられる政治など、国民には不要だ。

 

 

 

 

| 児玉昌己 | - | 19:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
議員歳費と議席の削減論について 2

 それにしても日本の国会議員数が少ないなどの議論には、まともな根拠は何もない。あるとすれば、わずかに先進国中最悪というべくも国会議員数が少ない米国に倣うというだけのことである。
 すなわち、米国の5-15倍はある欧州の先進国の議員定数をまるで無視し、寡頭制の権威主義的政治を是とする米国を基準として、初めて意味のある議論でしかない。  
 米国議会が日本のモデルなのか。冗談ではない。
 それは、大統領制のなかで、大統領府の下僕のごとくに機能して来た。
 ベトナム戦争や、イラク戦争を振りかえればいい。実に多くの市民が反対していた戦争だ。上院は、ハリウッド映画で見るがごとく、貴族化し、下院はわずかに任期2年。当選年次と改選年次の2年だけ。それほど米国が好きなら、任期も2年にせよということだ。

国政についてもまともな議論もできず、再選のために、選挙区の利益を国家の利益に優先する議員だけになる。

人ほどいる計算だ。スウェーデンについては4000人いることになる。それにかんして、1年半ほど前にブログした。人気記事の1つである。1300議会先進国の欧州ではイギリスでは人口比では

以下がそれだ。

2009.01.10 Saturday 国会議員の数 4
  日本は米ロにつぐ最低水準の議席数

http://masami-kodama.jugem.jp/?eid=1654

| 児玉昌己 | - | 18:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
議員歳費と議席の削減論について  1

 在京のテレビのネットキー局から議員歳費のことで電話があった。昨今の議員歳費についての削減の動きに関してどうみるかということだ。

 それで、歳費が多いかどうかは、各国の政治文化や政治家の数の問題なども絡み、総合的に見る必要があると答える。
 サラリーマンの給与と同等にものを言ってもらっては困る。国会議員は憲法上の存在であり、国民の代表である。 あまりに議員歳費が少ないと、国政の調査もできないし、利権の悪の誘惑にも染まりかねない。金に困らない貴族的議員との「議員格差」のこともある。

もとより、私は2400万余の議員歳費は高いと思っている。米国は為替レートの計算次第で前後するが1700万円程度。これは、今回のこともあって、米国在外公館の、懇意にさせて頂いている方に問いあわせ、ご教示頂いた。イギリスでは1000万程度だと聞く。
 ただし、冒頭に書いたように、議員歳費の問題は、それだけでは論じるべきでない。私は、政党助成金の問題、政治献金、その使途証明などあわせて論じるべきであると思っている。
 周知のとおり、今の政治は、
あまりに世離れた世襲貴族的議員が権力の中枢に居座り、庶民感覚とかけ離れた政治となっている。事実、昨今の政治指導者のあの軽さは一体何だと言いたい。
 問題なのは、議員の歳費いうことよりも以上にそれと連動した選挙制度の改革案と議員削減論である。
 個人的には、議員歳費の削減をするなら、それと合わせて、議員定数増をなすべきと、むしろ提案している。
 世襲議員に占められる国会を庶民の代表を多数送り出すことで、世襲議員の異様なウエートを相対化せよというのが私の持論である。
 議員歳費の問題は、それだけでは取り扱えない。選挙制度の問題全般の中で討議すべき性格のものである。
 実際、国民の代表をカネを理由として
「仕分け」の対象にするような議論は、政治の本質を忘れた、本末転倒な議論である。
 無能な議員などなくしてしまえという発想の先には、国会無用論が待っている。
 冗談ではない。国会こそが日本の国権の最高機関である。
 カネの議論だけで、政治家の定数削減をいう議論は、日本の民主主義にとっての、実に危険な徴候である。

 

| 児玉昌己 | - | 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) |

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