脇先生が91の誕生日を迎えられてほどなく、この8日に他界された。
先生のゼミ生で、卒業後も先生との連絡を欠かさなかった友人の同志社同期の栗山君からの電話で知った。
先生は、山口県は柳井の人で、東京大学法学部政治学科で丸山眞男門下として学ばれ、『知識人と政治』(岩波新書)で、1973年に第8回吉野作造賞を受賞された。またウエーバ―の古典的名著『職業としての政治』岩波文庫の翻訳もされ、政治学者でその名を知らぬものはない。
先生には学部時代、そして人以上に長く続いた大学院時代に多くを学ばせて頂き、またお世話になった。実際、先生からご教示いただいた思想史の素養の幾分かがなければ、どれほど貧相な思考になっていたのかと思う。その多くは脇先生から学んだことである。
実際、40年前に、先生の所で、ハナ・アーレントを読んでいたのだから。
1年3か月ほど前に京都下鴨の先生のご自宅にお伺いし、奥様を交えて、思い出話などで時間を過ごさせていただいた。
その際、奥様から先生の著作やレービットの訳書を頂き、先生にお願いして署名いただいた。写していただいた写真とともにそれを大切にカバンに入れて自宅を辞した。
電話ではその後も何回かお話できたが、お会いしたのは、それが最後となった。
先生は大正13年(1924年)のお生まれで、早くして逝った同じく大正世代の父と重ね合わせて、そのご長命を、お喜びしていた。
訃報に接して、奥様にお悔やみの電話をすると、大晦日に体調を崩され、ほどなく、入院先の病院で静かに息を引き取られたとのことであった。
恩師の丸山眞男先生(1914-1996)を超えてご長命になられたのは、なによりも、奥様の献身的なお世話の賜物ではなかったかと密かに思っている。
先生は京都大学に奉職された後、在外研究で予定を超えた長期間ドイツに残られ、結局、京大を去られることになる。
帰国後、同志社に請われ定年まで籍を置かれ、政治思想を講じられた。この間、多数の学生を育てられ、十指に余る院生を大学教員として世に送り出された。私もその端くれの一人である。
学者としてはもとより、 VWのビートルを愛用されていたように、生活者としても、先生は幸せな人生であったのだと独り想っているところだ。
奥様やご遺族の悲しみを想い、苦しい院生時代に、優しいまなざしでなされた幾多の助言を脳裏に浮かべている。
その中には、私にとって大きな転換点となるイギリス留学と金丸輝男先生(元日本EU学会理事長)への師事も含まれている。
先生が、人生で最も意気軒昂にしておられたであろう50代の頃、「なんじゃない」という独特の語りかけで、紫煙をくゆらせ、ビールを傾けられつつ、権威に囚われることを意図して否定されるかのように「カントちゃんは云々(うんぬん)」と我々院生を相手に語られたあの若き日々を想い起している。政治はバランスだ、とも語られていた。
二度と帰らぬ日々。同志社で一生モノの出会いをさせていただいた。寂しさは募るばかりである。
参考ブログ
2006.07.23 Sunday 「国家須要の人材」、大学院奨学金と脇圭平先生のこと
http://masami-kodama.jugem.jp/?eid=229
2009.01.02 Friday 09正月2日 脇圭平先生と蔵書 上下
http://masami-kodama.jugem.jp/?eid=1641
2013.09.29 Sunday 脇圭平先生をご自宅に訪ね、同志社でのEU研究会で学ぶ
http://masami-kodama.jugem.jp/?eid=3543